京都が好き、という人は多くても、嫌い、という人は少ないのではないか。ところが最近、『京都ぎらい』(朝日新聞出版)という本が注目を集めている。昨秋発売で2016年の新書大賞1位。すでに18万部を売り上げている。
碩学に小馬鹿にされた
筆者は国際日本文化センター教授の井上章一さん。風俗論、建築論などで知られる。84年『霊柩車の誕生』でユニークな研究者として頭角を現し、86年『つくられた桂離宮神話』でサントリー学芸賞を受賞した。京都生まれで京都大卒。関西を代表する文化の論客だ。他地域の人から見ると、「生粋の京都人」に見える井上さん。なぜ「京都ぎらい」なのか。
理由は単純だ。京都には中心部の「洛中」と周辺の「洛外」がある。本物の「京都人」を自負できるのは「洛中」育ちだけ。「洛外」出身の筆者は「偽・京都人」にすぎない。同じ京都の中でも、ことあるごとに一段下に見られ、小馬鹿にされてきた、というのだ。
その屈辱の体験記がなかなかリアルだ。たとえばまだ若いころ、現在は重要文化財になっている有名な杉本家住宅の九代目当主、故・杉本秀太郎氏を洛中に訪ねたときのこと。「君、どこの子や」と聞かれ、(京都市内西方の)「嵯峨から来ました」と答えると、杉本氏は「昔、あのあたりにいるお百姓さんが、うちへよう肥(こえ)をくみに来てくれたんや」と懐かしんだ。要するに杉本家の糞尿の回収作業をしていた地区の子か、「田舎の子なんやな」というわけだ。初対面の杉本氏にいきなり「肥くみ」と一発かまされ、落ち込んでしまった。
もう一人、洛中の優越ぶりを語った人として、故・梅棹忠夫氏を挙げる。昔話を聞こうと、西陣育ちの梅棹氏のところにおもむいたときのことだ。「先生、嵯峨のあたりのことは、田舎やと見下しはりましたか」と尋ねると、大先生はためらいもなく答えた。「そら、そうや。あの辺は言葉づかいがおかしかった。僕らが中学生ぐらいの時には、真似してよう笑おうたもんや」。井上さんは戦後育ちなので、もはやこの地域特有の「訛り」はないが、昔は「言葉づかい」で見分けられ笑いものにされていたのかと悔しい思いをした。
杉本氏は、フランス文学の大家でエッセイストとしても知られ、読売文学賞や大佛次郎賞を受賞している。日文研の先輩教授で、日本芸術院会員でもあった。梅棹氏は文化人類学者としてあまりにも有名で、国立民族学博物館館長などをつとめた。ともに学者としてずば抜けた存在で、当時の井上さんからすれば仰ぎ見る碩学だ。
「同じ京都出身・京大育ち」と親近感を持っていたはずの井上さんにとって、そんな二人から面と向かって「洛外か」「田舎者やな」とあからさまに見下された体験は、大きな心の傷になったようだ。「金輪際、京都人であるかのようにふるまうことは、すまい」「洛外の民として自分の生涯はおえよう」――そう決意して生きてきた証が本書、というわけだ。