平山郁夫さんの「文化財難民救済活動」実る アフガニスタン「守りぬかれた秘宝展」 東京国立博物館・表慶館

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被爆体験が原点に文化財保護の活動

   平山さんは1945年8月6日、中学3年の時に広島で被爆した。通っていた中学では、教師13人、生徒188人が即死だった。平山さんは九死に一生を得たものの、一時は白血球が半分に減り、階段をのぼる途中で目の前が真っ暗になるなど後遺症に苦しんだ。29歳の時に、出世作となった「仏教伝来」を描きあげたが、そのころはとりわけ衰弱が激しく、死の恐怖と向き合う日々だった。

   画家なら、原爆の体験をテーマに絵を描けば...といろいろな人から勧められた。しかし実際に大作「広島生変図」で初めて原爆を描けたのは1979年のことだ。被爆から34年も経っていた。「どうしてもかたちにできなかった。あの日を思うと、手が止まってしまうのです。あまりに強烈な体験で、私には時間が必要でした」(アエラ1995年8月10号のインタビュー)

   だから非戦と平和への思いは人一倍強かった。平山さんの行動のすべては、自身のそうした被爆体験が原点になっていた。

    平山さんの遺志を継ぎ、流出文化財保護日本員会の委員長を務める宮田亮平・東京藝術大学長(16年4月から文化庁長官に就任予定)は昨年、保護・保管してきた流出文化財のアフガニスタンへの返還についての記者発表会で「今年は文化財保護に情熱を傾けた平山氏の7回忌。喜んでいるのでは」とコメント、改めて平山さんに敬意を表し、長年の功績をたたえた。

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