「ラ・マルセイエーズ」が聴こえる部分...に込めた思い
音楽の都ウィーンでは、シューベルトの兄を訪ねて、そこで、未発表の交響曲――今日「ザ・グレイト」と呼ばれている作品です――を発見するなど、重要な体験もありましたが、結果的に、ウィーンはシューマンにとって失望の都となってしまいました。音楽家としてより、音楽評論家として活動していた当時のシューマンにとって、当時のメッテルニヒ体制の帝都ウィーンは、あまりにも検閲や、言論弾圧が厳しく、新しい音楽雑誌の出版も許可されないなど、活躍の余地がほとんどなかったからです。
「ウィーンの謝肉祭の道化」は、シューマンが、そろそろドイツに戻ろうか、と考えていた1839年に着手された作品です。ほとんどがウィーンで書かれましたが、最終楽章はライプツィヒに戻ってから完成されたといわれています。それまで、3曲のソナタや「謝肉祭」「クライスレリアーナ」「幻想曲」といった大規模なピアノ作品を既に作りあげていたシューマンにとって、この曲は「ウィーンの風味をまぶした自由な形式のソナタ風作品」となっています。1楽章には当時ウィーンで流行し始めていたワルツが取り入れられていたり、ごく一部分ですが、「ラ・マルセイエーズ」が聴こえる部分があります。なぜウィーンがモチーフの曲に、フランス国歌の「ラ・マルセイエーズ」が、と思いますが、それは、反体制派に人気のあった歌だからで、当局に対するシューマンの皮肉が読み取れます。
結局、気取っていて、閉鎖的で、また政治的に抑圧的だったウィーンとは、袂を分かったシューマンですが、その滞在経験の中から、彼は、ウィーン風な作風を採り入れた楽しい曲として、もう一つの「謝肉祭」を残したのです。
本田聖嗣