真っ赤な夕陽が大地に落ちる。五族協和、王道楽土のユートピア・・・戦前多くの日本人のロマンをかきたてた旧満州。そこに「最高学府」として設立されたものの、わずか8年余で幻のごとく歴史の闇に消えた大学があった。
「満州建国大学」――。第13回の開高健ノンフィクション賞を受賞した『五色の虹』(集英社、2015年12月刊)は、そんな建国大学の実像と、卒業生たちの戦後に迫った物語だ。旧満州について書かれた本は多いが、建国大学に絞ったものは極めて珍しい。
「同窓会名簿」を手掛かりに
厚さ1センチほどの小冊子が、朝日新聞の社会部記者・三浦英之さんの記者魂を揺さぶった。「建国大学同窓会名簿」だ。見開いた瞬間、職業記者の「性」(さが)に火がついた。卒業生たちを訪ね歩き、彼らの半生を記録したいという衝動に駆られたのだ。もはや存命の人もわずかだ。今が最後の機会になる・・・。
満州建国大学は1937(昭和12)年、「満州国」の首都・新京(長春)に設立された。発案者は石原莞爾だという。満州国の建国から5年後のことだ。全寮制で学費免除。日本人、中国人、朝鮮人、モンゴル人、白系ロシア人の優秀な若者を選抜し、満州国の次代の指導者を養成するのが狙いだった。
1期生は定員150人。応募者は約2万人。大変な倍率だった。合格者は日本人65人、中国人59人、朝鮮人11人、モンゴル人7人、ロシア人5人、台湾人3人。
三浦記者は2010年6月に東京で開かれた「最後の同窓会」取材などをがきっかけに同窓会名簿を入手、その後もコツコツと国内外に足を延ばした。中国、台湾、韓国、モンゴル、カザフスタン。同窓生約1400人のうち、もはや存命は300人ほど。若くても90歳に届く。まさに時間との闘いだった。
それぞれの民俗が「同床異夢」
建国大学の大きな特徴として「言論の自由」があったという。五族協和を実現するには、互いに批判し合う自由を認める必要がある――当時の日本国内では考えられない、特例だった。国内では禁書とされていた社会主義などの本も読めた。毎晩のように学生たちの「座談会」が開かれ、異なる民族のエリート青年たちが議論を交わした。日本政府に対する激しい批判もあった。
卒業生の一人は、民族による学生気質の違いをこう分析している。「新しい国造りに青雲の志を燃やす日本人学生。すべては日本の大陸進出を美化するまやかしだと反発する中国人学生。満州の国造りを成功させることが朝鮮独立への道につながると現実路線を敷く朝鮮人学生。少数民族が被支配の立場から脱却できると希望を燃やす台湾人学生やモンゴル人学生。共産革命を逃れて安住の地ができると陽気にはしゃぐロシア人学生」
やがて驚きの「事件」が起きる。中国人の学生の一部が、北京や重慶の中国人の抗日グループと密かに連絡を取り、蜂起の計画を練っていたことが判明したというのだ。1941年12月、建国大学の1期生から3期生の中国人学生が憲兵隊に治安維持法違反で一斉に捕まった。水責めなどの過酷な拷問が続き、43年4月、新京の特別治安法廷で首謀者とされた学生2人に無期懲役、さらに13人の学生に懲役10年~15年の判決が下った。
「神童」たちの戦後
三浦記者はこの事件の首謀者で、まだ存命の楊増志氏を探し出し、さらに詳しく話を聞こうと大連を訪れる。戦時中に、抗日のリーダーとして戦った「英雄」の戦後はどうだったのか。
当局の許可も取って、インタビューは指定のホテルの喫茶ルームで始まった。楊さんには親族と称する中年男性が付き添った。ところが、取材の途中でこの中年男性の携帯電話何度も鳴り、そのたびに男性がどこかとやりとりしている。やがて、「今日はこれで終わりです」。取材は突然打ち切られ、その後、楊氏とは一切連絡ができなくなった。
台湾に住む彼の同窓生によると、楊氏は単に建国大学における抗日運動のリーダーというだけではなかった。戦後、中国で共産党が実権を握ってからは、その体制を徹底的に批判する政治グループの中心でもあった。「逮捕され釈放され、また逮捕され、釈放される。その連続こそが彼の人生なんだ」。満州国は13年で終わったが、共産党の政権だって60年ちょっと続いているにすぎない。彼からすれば、今の政権だって一時的な為政者にすぎないんだよ、と解説する。
卒業生の中には、のちに韓国の首相になった姜英勲氏など要職についた人も少なくない。しかし、「神童」と呼ばれた少年時代にふさわしい成功を収めた人はむしろ少数だ。「非・日本人」の多くは戦後「日本帝国主義」への協力者とみなされた。日本人の場合は、その後のシベリア抑留などで帰国が遅れ、色眼鏡で見られて活躍の場が限られるケースが少なくなかった。
「昔のことは忘れたよ」
中でも北朝鮮への帰国を選択した朝鮮人学生K氏は、最も数奇な運命をたどった1人だ。戦後は北朝鮮で大学教員をしていたが、ある日当局に呼び出され、韓国に行って昔の同級生たちを懐柔し、極秘情報を入手せよ、というミッションを与えられる。工作船で潜入するが、身元がばれて捕まり、韓国で20年もの刑務所生活を強いられた。
1987年に出所したが、職も身寄りもない。泣き着いたのが昔の同級生だった。それも日本人の――。日本で牧師になっていた同級生に手紙を書き、窮状を訴えた。牧師は定期的にポケットマネーを仕送りし、その額は積もり積もって数百万円にのぼったという。K氏はそのことを2003年に亡くなる直前、韓国内の同級生に打ち明けた。
主義主張や、戦後の立場を超えて、困っているかつての同窓生を助ける。それも表に出ないようにして。五族協和の細々とした「遺脈」を見つけたような気がしたのだろうか、三浦記者はもっと詳しく話を聞きたいと、都内に住むこの牧師を訪ねた。しかし牧師は、「昔のことは忘れたよ」と会話に応じなかった。あなたの人生はどんな人生でしたかと尋ねても、猫に囲まれた部屋で牧師は静かにほほ笑むだけだった。傍らで老妻が「私にとっては素晴らしい人生でした」と言葉をつなぎ、涙ぐんだ。
三浦記者は1974年生まれ。学生時代にバックパッカーとして70か国を回ったという。5年がかりの本書には、そんな著者の行動力が凝縮されている。3.11の東日本大震災のあと、南三陸駐在を経て、現在はアフリカ特派員(ヨハネスブルク支局長)。
「あとがき」で、(五族協和は)無数の悲劇を残したが、「彼らが当時抱いていた『民族協和』という夢や理想は、世界中の隣接国が憎しみ合っている今だからこそ、私たちが進むべき道を闇夜にぼんやりと照らしているのではないか」と記している。