それぞれの民俗が「同床異夢」
建国大学の大きな特徴として「言論の自由」があったという。五族協和を実現するには、互いに批判し合う自由を認める必要がある――当時の日本国内では考えられない、特例だった。国内では禁書とされていた社会主義などの本も読めた。毎晩のように学生たちの「座談会」が開かれ、異なる民族のエリート青年たちが議論を交わした。日本政府に対する激しい批判もあった。
卒業生の一人は、民族による学生気質の違いをこう分析している。「新しい国造りに青雲の志を燃やす日本人学生。すべては日本の大陸進出を美化するまやかしだと反発する中国人学生。満州の国造りを成功させることが朝鮮独立への道につながると現実路線を敷く朝鮮人学生。少数民族が被支配の立場から脱却できると希望を燃やす台湾人学生やモンゴル人学生。共産革命を逃れて安住の地ができると陽気にはしゃぐロシア人学生」
やがて驚きの「事件」が起きる。中国人の学生の一部が、北京や重慶の中国人の抗日グループと密かに連絡を取り、蜂起の計画を練っていたことが判明したというのだ。1941年12月、建国大学の1期生から3期生の中国人学生が憲兵隊に治安維持法違反で一斉に捕まった。水責めなどの過酷な拷問が続き、43年4月、新京の特別治安法廷で首謀者とされた学生2人に無期懲役、さらに13人の学生に懲役10年~15年の判決が下った。