パリの週刊誌「シャルリーエブド」襲撃事件から1年。一冊の本が世界を揺さぶり続けている。
フランスの作家、ミシェル・ウェルベックの近未来小説『服従』だ。フランスで2022年、イスラム政権ができる――この小説が描く6年後のフランスの姿が、もはや欧州各国では荒唐無稽と言えなくなっているからだ。
作家は身辺警護の対象に
2015年1月7日。奇しくも襲撃事件の当日、『服従』は発売された。その内容や衝撃を、日本でいち早く報じたのは同月13日の毎日新聞だった。
「仏作家の新作、波紋 テロ当日発売、警察が身辺警護」という見出しの記事で次のように伝えた。
「『服従』は、22年の大統領選でイスラム政党代表が極右政党「国民戦線」のルペン党首を破り、大統領に就任する物語。一夫多妻制や女性の就労制限など急速にイスラム化が進むという筋書きだ。実在の政治家も多く登場し、発売前から話題となっていた」
「イスラム化」の脅威を暗示する内容ということもあり、同氏が新たなテロの標的となることを懸念した仏警察当局は同氏の身辺警護を始めた。本の販売イベントも中止され、同氏は既にパリを脱出した、とも伝えた。
ウェルベック氏は58年、インド洋の仏海外県レユニオン島の生まれ。複雑な家庭環境で育ち、波乱に満ちた人生を歩んできたことで知られる。2010年にはフランスで最も権威のある文学賞ゴンクール賞を受賞している人気作家だ。過去には「イスラムはくだらない宗教」と発言し、人種的憎悪扇動罪などに問われたこともあるが無罪となっている。
「なかなかショッキング」「読後感は複雑」
『服従』はフランスでの発売後、すぐにイギリス、ドイツ、イタリア、クロアチアなど各国で次々と翻訳されてベストセラーに。日本では9月11日、河出書房新社から翻訳が出た。同27日にはさっそく文芸評論家の池澤夏樹氏が毎日新聞の書評で取り上げ、「なかなかショッキング」「読後感は複雑」と感想を記した。
さらにその後、北海道新聞、読売新聞、東京新聞、日経新聞、共同通信、朝日新聞と主要メディアで次々と紹介された。海外の小説が大手紙の書評欄を「グランドスラム」のように完全制覇するのは異例だ。
そして追い打ちをかけるかのように11月15日には、新たに死者130名、負傷者300名以上という同時多発テロがパリで発生した。
「小説の物語を現実が追いかけているかのような流れになった。この先、2022年までにいったい何が起きるのか予想もつかない。怖いですね」と邦訳版を担当した河出書房新社の編集者は話す。
邦訳は現在2万5000部と海外小説にしては好調な売れ行き。1月8日現在、アマゾンの著者別外国小説売れ筋ランキング部門では5位に入っている。カフカ『変身』、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、カミュ『異邦人』などよりも上位にある。
アマゾンの紹介ページでは作家の高橋源一郎氏が、揺れる心境をこうつづっている。
――読み終わって、呆然としながら、自分にこう言い聞かせなければならなかった。「これは小説であって現実ではないんだ」と。「こんなことは起こらない‥‥たぶん‥いや、もしかしたら」
近未来の社会体制を予言的に描いた小説では、トマス・モア『ユートピア』、ジョージ・オーウェルの『1984年』などがあまりに有名だ。果たして『服従』もそうした古典的名著の一冊になるのだろうか。