認知症を患っても、家族にとっては、夫であり、父親であり、祖父である
認知症をモチーフとした小説といえば、古くは、認知症や介護の問題を社会問題へと引き上げた「恍惚の人」(有吉佐和子)、老老介護の現実を男の立場から描写した「黄落」(佐江衆一)などが思い浮かぶ。最近ではずいぶんと数も増えてきたが、やはり、その多くは、悲惨な状況を赤裸々に描き、「重い」内容となるのが通例だ。
しかし、本書は、「認知症の父と家族のあたたかくて、切ない十年の日々」と帯に書かれているとおり、実に穏やかな印象の本である。
本書で描かれているのは、家族が、それぞれ自分の立場から、本人(昇平)とかかわり、それぞれの限界の中で、精一杯、家族を守り、支えようとしている姿である。
実際に生じている家族介護の深刻な現実は、こんな甘いものではないし、厳しい場面も多々あろうが、本書が、読者に、しみじみとした優しい気持ちを与えるのは、このような家族の素朴な姿が心を打つからであろう。
特に、10年にわたり、夫の介護を続け、網膜剥離で失明寸前となり、入院・手術となっても、なお夫を気遣う妻、曜子の様子は、強く印象に残る。
「お母さん、いつからそんなことになってたの。なんで言ってくれなかったの」 「だって毎日いっそがしくて、目の前がちらちら黒いなんてこと、どうだっていいと思ってたのよ!」 「そんなこと言ったって、お母さん、目が見えなくなっちゃったら、お父さんの世話だってできないじゃないの」 「そんなことはわかってますよっ。あああ。ともかくね。あなた、家に行ってくれる? お父さんが夕方にはデイサービスから帰ってくるから、誰もいないと困るのよ!」 「寝ててね、うんこするじゃない? 紙パンツの中に、うんこがあるのが、気持ち悪いらしくて、取り出して、わたしのベッドに並べるのよ。あの人、なんでも、きちんと並んでるのが好きなのよね」 「どういうこと? お父さんが、紙パンツに手を入れて、その、あの、そういう、うんこを取り出して、お母さんのベッドに並べるわけ?」 「そうよ。こっちは家の戸締まりして、電気も消して、寝室に戻るじゃない? すごい臭いがするなと思うと、並んでいるのよ」 「それは、なんともやりきれない光景だわね。硬めのだったわけ?」 「そうね、わりあいと硬めだったわね、幸いにして。邪魔なものがなくなると、きもちよくなって眠れるんじゃないのかしらね。ほら、お父さん、きれい好きだから」 「なんか、その言葉は、この場合、当てはまるのかしらね」、「きれい好きなんじゃなくて、隣にお母さんがいないから、腹立てて意地悪しちゃえと思ったんじゃない?」 「そうなのかしら。かわいそうね、お父さん。わたしがいなくって。ああ、ねえ、あなたたち、そんなこと毎日やってはくれないでしょ。わたし、1日も早く網膜をくっつけて、家に帰る。とにかく、1分も無駄にせずに、うつぶせを頑張りぬくわ。この目にガスがある限り、うつぶせて、うつぶせて、うつぶせぬくわよ」
認知症が進んだ夫のために、ここまで妻を突き動かす思いは何なのか。本書はこう答えている。
「夫は妻の名前を忘れた。結婚記念日も、三人の娘をいっしょに育てたこともどうやら忘れた。二十数年前に二人が初めて買い、それ以来暮らし続けている家の住所も、それが自分の家であることも忘れた。妻、という言葉も、家族、という言葉も忘れてしまった」 「それでも夫は妻が近くにいないと不安そうに探す。不愉快なことがあれば、目で訴えてくる。何が変わってしまったというのだろう。言葉は失われた。記憶も。知性の大部分も。けれど、長い結婚生活の中で二人の間に常に、あるときは強く、あるいときはさほど強くもなかったかもしれないけれども、たしかに存在した何かと同じものでもって、夫は妻とコミュニケーションを保っているのだ」
妻、曜子は、胸の内で、こっそり呟いている。
「認知症だとかなんだとか言って、そりゃ、わたしの名前だって忘れちゃってるし、妻だってことも憶えてないでしょうけれど、だからって何もかもわかんないわけじゃないのよ」
果たして、我が家の場合、こんな夫婦関係を期待することができるだろうか...。