「やとわれ作曲家」の枠を超えるほどの意欲
ハイドンは、ロンドンから「天地創造」の台本を持ち帰ります。そして、長年彼の協力者であり、優秀な外交官で語学にも堪能だったヴァン・スヴィーテン男爵に独訳をしてもらいます。この人物は、音楽振興のために音楽協会という団体を作り、後年、モーツアルトはこの協会のためにヘンデルのメサイアを逆に英語からドイツ語にアレンジしています。ハイドンは英語でも上演できるように気を配ったといいますが、ドイツ語版として完成し、初演時から大変な成功をおさめ、瞬く間に、ヨーロッパ中に紹介され、広くハイドンの代表作として親しまれるようになりました。60歳を超えた晩年に、彼は自分の音楽人生の総決算として、天地創造の物語を華麗なるオラトリオにしたのです。
その情熱を証明する事実があります。当時の作曲家は、ほぼ100%、宮廷や教会などの「やとわれ作曲家」でした。ハイドンも、長年エステルハージー家に雇われて、その作品はいかなる場合も「注文生産」だったのです。ところが、この「天地創造」は彼の自主創作として作られた作品なのです。それだけ、ハイドンの創作意欲が高かったことの証明といえるでしょう。年齢から言えば「引退後」かつ、ロンドンでの大成功から経済的にも十分裕福だったにもかかわらず、新ジャンルの大作に挑んだハイドンの情熱は、新年に限らず、今でも人々に生きる希望と新鮮な感動を与えてくれます。
本田聖嗣