バロックの2大巨匠、バッハとヘンデルは2人とも中部ドイツの出身で、1685年の同年生まれ、ともに音楽の巨匠であるという点は似ているものの、その生涯は対照的でした。バッハは海外の音楽様式も幅広く勉強するものの、一生出身地に近いドイツにとどまり、世俗的音楽よりも、「神に仕える」のを目的とする教会音楽の分野をきわめたため、一種孤高の高みにまで到達したのに対し、ヘンデルは、プロとしてのスタートからオペラにかかわり「人々に見て、聴いてもらって人気を得る」という、聴衆のための音楽のジャンルで活躍したのです。ヘンデルは、人々の好みや流行に敏感にならざるを得ませんでした。
民衆が楽しめる「三枚目」の演出が少なかったヘンデルのオペラ
音楽の最先端地域や、音楽がたくさん消費される地をもとめて移動したため、イタリア各地やロンドンに足を延ばし、最終的にイギリスに帰化までしてしまったヘンデルですが、同じ時期、音楽家だけでなく、王侯貴族も現代の我々が考えている以上に国境を越えました。ヘンデルはイタリア修行後ハノーファーで宮廷楽長に任命されたにもかかわらず、その地ではほとんど活躍せず、オランダ経由イギリスにわたり、以降ロンドンに腰を落ち着けてしまったことは先週書きましたが、なんと、そのハノーファーの選帝侯ゲオルク1世ルートヴィヒに、イギリスのアン女王の逝去によりイギリスの王位が転がり込み、ジョージ1世として即位することになったのです。ヘンデルとしては「元の雇い主がドイツからイギリスまで追いかけてきた」状態になったわけで、ハノーファーではずいぶんと不義理をしたために、気まずい思いをしたといわれています。もっとも、ヘンデルほど語学が達者でなかったジョージ1世は、ハノーファーにとどまることが多く、ロンドンには、あまり滞在しなかったようですが...。ヘンデルは、王様との仲を修復するために、「水上の音楽」を書いたともいわれていますが、それはまた別の話にしましょう。
ロンドンには「イタリアで修業したイタリアオペラの専門家」として上陸したドイツ人のヘンデルは、「リナルド」や「忠実な羊飼い」、「ジュリアス・シーザー」といったオペラで成功しました。しかし、次第に、ヘンデルのイタリアオペラの人気は下降線をたどってゆきます。原因は一つではありませんでした。もともと、ロンドンの人々にとってイタリア語は外国語であり、英語の曲が求められたということや、本場イタリアからイタリア人音楽家も招聘されていたため、ヘンデルのライバルが増えてきた、また、ヘンデルのオペラはもっぱら貴族階級を意識したものであり、民衆も楽しめるような「三枚目」の演出が少なかった――というような各種の事情がありました。