ドイツへ"凱旋"も今度はオランダからロンドンへ
4年近くイタリアで、オルガンやチェンバロの奏者として、また作曲家として腕を磨き活躍した後、「イタリアをよく知るドイツの音楽家」として、ハノーファーとならぶ北ドイツの重要都市、ハンブルクの宮廷楽長として迎えられます。
普通なら、以降ドイツで活躍しました...となるところですが、活動的なヘンデルは、ハンブルクの宮廷楽長に就任してすぐ、故郷ハレを皮切りにまた大旅行に出かけ、オランダ経由、ロンドンに向かいます。先進国イタリア風のオペラは、北ドイツだけでなく、遠くイギリスでももてはやされるようになっていたのでした。
ロンドンで、「リナルド」というオペラを発表して大当たりをとったヘンデルは、なんと、ハンブルグの地位を顧みることなく、イギリスに腰を落ち着けて、活躍することを選択します。あろうことか帰化までしてしまいます。日本語の表記は出生地主義のため、ドイツ語で「ゲオルグ・フリードリヒ・ヘンデル」と記されることがほとんどですが、本当は、「ジョージ・フレデリック・ハンデル」と呼ばなければいけないのです。バッハより9年長生きして1759年に亡くなったヘンデルは、気が付けば人生の3分の2をイギリスで暮らしていたのでした。
イタリア・オペラに強い作曲家としてロンドンに渡ったヘンデルが、なぜかの地で、代表作である傑作オラトリオ、「メサイア」を作ることになったかは来週のお話にしましょう。
本田聖嗣