オペラの母国であり音楽の最先端でるイタリアへ
そのころのドイツは、現在と違って、たくさんの領邦国家が存在する地域で、小さな宮廷がいくつもありました。音楽家は、それぞれの街の宮廷か教会に奉職することで生計をたてていましたが、宮廷の音楽事情は領主によって激しく変わります。音楽好きの領主ならいいのですが、代替わりで音楽嫌いの君主が即位してしまったり、領主がイタリア好きならイタリア系の音楽家が重用されたり、フランスびいきならフランス的音楽ばかりがもてはやされたり、と音楽家たちは政治に翻弄されました。バッハもヘンデルも、仕えていた宮廷の環境変化によって、勤務地をたびたび変えています。
しかし、ヘンデルがバッハと激しく異なるのは、バッハが勤務地をたびたび変更しても一生北西ドイツから離れることがなかったのに対して、ヘンデルは、音楽のためとあらば、迷うことなく国境を越えたことです。語学も得意だったといわれています。
ハンブルグのオペラではヴァイオリン奏者としてだけなく、通奏低音奏者としても―つまりチェンバロなどの鍵盤楽器でアンサンブルの「低音と和音」を受け持つ―仕事をし、オペラ作曲家としてもデビューしたヘンデルは、わずか3年でハンブルグのオペラのレベルに見切りをつけ、オペラの母国にして音楽の最先端地域、イタリアへ向かいます。イタリアの各地で、コレルリやスカルラッティ親子といった現代にも名を残す巨匠たちと交流し、オペラだけでなくカンタータやオラトリオといった宗教曲も作曲し、高い評価を得ます。