「ロシア革命」の混乱避け国外へ、パリ滞在中に新バージョン発表
優秀な作曲家らしく、ラフマニノフは、あらゆるジャンルの曲を書いていますが、自身が素晴らしいピアニストであったがゆえに、ピアノ関連曲は特に優れたものが残されています。
ピアノソロの曲として、もっとも複雑かつ長大なソナタ...2曲彼は書き残しましたが...その第2番は、1913年に書かれました。彼は既に40歳、脂の乗り切った時期でした。ロシアだけでなく、ドイツやイタリア、遠くアメリカまで演奏旅行で足を運んでいましたし、作曲家としても作品が有名になってきていたので、いわば自分のすべての要素を詰め込んで、満を持して完成させたのです。彼にとっての自信作を、もちろん自分自身のピアノで、主にロシアで演奏しつづけました。
ところが、この曲の評判もあまりぱっとしなかったのです。冗長である、という意見がかなり聞かれました。そうしているうちに、1917年がやってきました。ロシア革命の年です。もと貴族の出自であるラフマニノフは、いろいろな混乱から身を守るために、アメリカに移住します。そして、パリに滞在していた1931年、ピアノソナタ 第2番を、思い切って編曲し、かなり短くして「1931年版」を発表します。
しかし、残念ながらこの版も歓迎されたとはいえず、現代では、両者の間をとった「折衷版」を演奏するピアニストがいるぐらいです。楽譜も、版権を持つロンドンの出版社から、1913年版と31年版が両方掲載された状態で、出版されています。
作曲家以前にたいへん優秀なピアニストであったラフマニノフの、ピアノの大作「ソナタ第2番」は、数奇な運命にも翻弄され、彼の代表曲としては、少し影の薄い存在となってしまったのです。
本田聖嗣