先週取り上げた、ベートーヴェンの月光は、17歳の伯爵令嬢G・グッチャルディに献呈されていましたが、当然のごとく、彼のこの秘められた恋は成就しませんでした。彼女はガーレンベルク伯爵という青年貴族と結婚してしまい。自分に自信のあったベートーヴェンは失望と失恋で相当つらい時期を過ごしたと思われます。失恋6か月後に、彼は遺書を書いているのです。有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれるものです。
今日の1曲は、この遺書のあと、よみがえったベートーヴェンが革新的な作品として世に問うた交響曲、「英雄」の名前で呼ばれる第3交響曲です。
遺書を書くほど絶望も、交響曲に向かう芸術的衝動が克つ
「ハイリゲンシュタットの遺書」はベートーヴェンの死後、遺品の中から見つかったもので、生前はそんなものを書いていたとは周囲の人は知りませんでした。しかし、なにが彼をそこまで追い詰めたか...。その原因は人々にも明らかでした。それは、惚れっぽいベートーヴェンの失恋などではなく、これから作曲家として世に出ようとしている時に彼を襲った致命的な疾患...つまり「耳が聞こえなくなる」という病気です。30歳ごろまでは、即興演奏の得意なピアニストとして評判だったベートーヴェンは、このころから本格的に作曲に取り掛かっており、交響曲も既に2曲発表していました。そこへ突然、耳が聞こえなくなってゆく病気に襲われたのです。音楽家としてはまことに致命的な病気ですから、普段から人のいうことを聞かない独立の気性であるベートーヴェンも、医者や周囲の勧めに従って、仕事場である帝都ウィーンを離れて、温泉地カルルスバートに行ったり、転地療養として、田舎のハイリデンシュタットに足を運んで必死に治療したのです。しかし、一向に症状は改善せず、ついには遺書を書くまでに追い詰められました。
幸いなことに、絶望よりも、ベートーヴェンは自分の内側から湧き上がってくる音楽という名の芸術的衝動のほうが大きく、結局、自ら命を絶つことはしませんでした。遺書も、引き出しの奥深くにしまわれることになります。そして、芸術家としての自分の使命をあらためて思いなおしたベートーヴェンは、何か革新的な作品を作ろうと考え始めます。遺書の後、つまり、「月光」ソナタのあとにも、彼はピアノのためのソナタを数曲作っていますが、それらは「月光」ほど革新的ではなく、彼自身「今日までの作品には満足していない」と友人に語っています。彼は、音楽の最高峰の分野であるオーケストラのためのソナタ形式の曲、つまり「交響曲」でそれに取り組もうとするのです。
"ベートーヴェンとしての特色"のターニングポイント
さかのぼること5年前、ウィーンにいたフランス大使ベルナデット将軍から、フランスの英雄、ナポレオンに音楽を作って献呈してはどうか、という提案を受けていました。遺書を書いたが自殺は思いとどまった1802年ごろの彼の音楽ノートに、後に「英雄交響曲」に結実する旋律がメモされているので、彼は、立ち直りと同時に、この交響曲を猛然と作り始めたと推測されます。完成までには1年半以上かかりました。
出来上がった交響曲は、古い伝統から脱却しきれていなかった、1、2番の交響曲とは別次元の作品でした。全体の4楽章が有機的につながっていたり、オーケストラの編成が斬新だったり、それぞれの楽器の使い方が革新的だったり、3拍子の3楽章に初めて「スケルツォ」と呼ばれる早い形式の曲を導入したり、4楽章が自由な変奏曲形式だったり...とその今までにない革命的な特徴は枚挙にいとまがありません。この曲は、ベートーヴェンが真に作曲家ベートーヴェンとして特色を出してゆく、ターニングポイントとなったのです。彼は後年、死の直前になって、交響曲はどれが傑作だったかと人に問われて、第5番「運命」や第9番「合唱付き」を差し置いて「第3番」を挙げたそうですから、彼自身、自信作と思っていたようです。
ところで、最初はブオナパルテと扉頁に記してナポレオンに捧げる姿勢を示していたベートーヴェンでしたが、彼が皇帝に即位した、というニュースを聞いて、「あの男も俗物だったのだ、庶民の英雄だと思っていたが、皇帝になって人権を踏みにじる側になるだろう」と言って、名前を削除し、「ある英雄の思い出に」と書き換えた...というエピソードが伝わっています。
本当どうか、信憑性には少し疑問符の付くこの逸話ですが、「英雄」は外部のナポレオンではなく、耳疾患を乗り越えて、自分の音楽を人々に伝える作業を続ける、と決断したベートーヴェンの内部に存在した、と考えることはできるのかもしれません。
本田聖嗣