"ベートーヴェンとしての特色"のターニングポイント
さかのぼること5年前、ウィーンにいたフランス大使ベルナデット将軍から、フランスの英雄、ナポレオンに音楽を作って献呈してはどうか、という提案を受けていました。遺書を書いたが自殺は思いとどまった1802年ごろの彼の音楽ノートに、後に「英雄交響曲」に結実する旋律がメモされているので、彼は、立ち直りと同時に、この交響曲を猛然と作り始めたと推測されます。完成までには1年半以上かかりました。
出来上がった交響曲は、古い伝統から脱却しきれていなかった、1、2番の交響曲とは別次元の作品でした。全体の4楽章が有機的につながっていたり、オーケストラの編成が斬新だったり、それぞれの楽器の使い方が革新的だったり、3拍子の3楽章に初めて「スケルツォ」と呼ばれる早い形式の曲を導入したり、4楽章が自由な変奏曲形式だったり...とその今までにない革命的な特徴は枚挙にいとまがありません。この曲は、ベートーヴェンが真に作曲家ベートーヴェンとして特色を出してゆく、ターニングポイントとなったのです。彼は後年、死の直前になって、交響曲はどれが傑作だったかと人に問われて、第5番「運命」や第9番「合唱付き」を差し置いて「第3番」を挙げたそうですから、彼自身、自信作と思っていたようです。
ところで、最初はブオナパルテと扉頁に記してナポレオンに捧げる姿勢を示していたベートーヴェンでしたが、彼が皇帝に即位した、というニュースを聞いて、「あの男も俗物だったのだ、庶民の英雄だと思っていたが、皇帝になって人権を踏みにじる側になるだろう」と言って、名前を削除し、「ある英雄の思い出に」と書き換えた...というエピソードが伝わっています。
本当どうか、信憑性には少し疑問符の付くこの逸話ですが、「英雄」は外部のナポレオンではなく、耳疾患を乗り越えて、自分の音楽を人々に伝える作業を続ける、と決断したベートーヴェンの内部に存在した、と考えることはできるのかもしれません。
本田聖嗣