ロシアバレエ団オリジナル演目としてパリで上演、評判に
フランスの作曲家は、当時すでに大家とされていたラヴェルでしたが、ロシアの作曲家選びが難航しました。ディアギレフは当初、5人組の近い立場の作曲家で指揮者でもあったアナトーリ・リャードフに依頼する心積もりでしたが、彼はもともとリムスキー=コルサコフの作曲クラスを欠席過多で除籍されたほどの飽きっぽい性格で、どうやら翌年の公演に間に合うようには曲が完成しない雲行きになります。
そこで、ディアギレフが思い出したのが、リムスキー=コルサコフの元で研鑽をつんだ若き俊英、ストラヴィンスキーでした。たまたま、1909年、彼の作品の演奏会にディアギレフは足を運んでいて、ピンとくるものがあったようです。
ディアギレフは、名プロデューサーでした。ストラヴィンスキーに、ロシアの民話を題材にした作品を、自らもダンサーであり振付師のミハイル・フォーキンと共同で作るように持ち掛けたのです。結果、出来上がった「火の鳥」は、「ロシアバレエ団(バレエ・リュス)」とパリで名乗るようになったバレエ団のオリジナル演目としてパリで上演され、その新しい音楽と、エキゾチックな物語で大変な評判を呼びます。
才能が、それを活かす人物に見いだされて、活躍の場をあたえられるという、幸せな出会いでした。
ヨーロッパ辺境の国、ロシアの無名の新人であったストラヴィンスキーの名は、この年から、ロシアバレエ団と共に、花の都パリでさらにセンセーションを巻き起こしてゆくことになります。
本田聖嗣