つい先日、クラシック・ファンにとっては、見過ごせない報道がありました。ロシアのサンクト・ペテルブルグ音楽院のアーカイブから、失われたといわれていたストラヴィンスキーの1908年の作品のオーケストラ自筆譜が発見されたのです。ロシア5人組の一人であったリムスキー=コルサコフの死去に際して、彼の弟子であったストラヴィンスキーが書いた葬送行進曲でした。ストラヴィンスキー本人が紛失を悔やんでいたという楽譜が、100年ぶりに音楽院の書庫から見つかったというニュースは世界を駆け巡りました。
今日は、そのロシア近代を代表する作曲家、ストラヴィンスキーの出世曲、バレエ音楽「火の鳥」をとりあげましょう。
帝政時代、フランスとの結びつきからバレエが盛んに
リムスキー=コルサコフやムソルグスキーがメンバーだった「ロシア5人組」や同世代のチャイコフスキーは、ロシアにクラシック音楽を根付かせ、ロシア独自の作品がたくさん生み出される土壌をつくりあげました。サンクト=ペテルブルクやモスクワに設立された音楽院によって、教育システムも整い、作曲家のみならず演奏家も排出されるようになります。もともと大国のロシアですから、人材は豊かでした。
しかし、ヨーロッパにおいては「辺境の国」であることには変わりはありません。政治や産業・経済の歴史などをみても、ヨーロッパの中心から離れているために、少しずつ変化が遅れ、結果的に革命という急進的な転換がおこってしまうのも、ロシアの特徴です。ストラヴィンスキーの今回発見された楽譜も、1917年のロシア革命の時に行方不明になっていたものでした。
ロシアは帝政時代の宮廷がフランスと結びつきが強かったために――それはおそらく、間に「ドイツ」という共通の仮想敵を持つという「敵の敵は味方」的な側面が強かったのですが――フランスが本家のバレエが盛んでした。1900年代初頭、ロシアのバレエに優秀なプロデューサーが現れます。セルゲイ・ディアギレフという名のこの人物は、リムスキー=コルサコフに作曲を師事したものの、才能の無さを指摘されてあきらめたという経緯がありました。しかし、彼の芸術への情熱は尽きることなく、ロシアの絵画や音楽を外国に、特にフランスに紹介するという仕事をし始めます。
パリでロシアの芸術が驚きを持って迎えられる、という体験に味を占めたディアギレフは、1909年に、夏季休暇中のロシアのバレエ団員から参加者を募って臨時のバレエ団を編成し、バレエの総本山パリに乗り込みます。初回はロシアでの演目に少し手を加えたプログラムでしたが、フランスで評判になりました。興行的には大赤字でしたが、手ごたえを感じたディアギレフは、翌年の公演のために、フランスとロシアの作曲家にオリジナルの演目を作曲してもらう依頼をします。