独作曲家の作品を紹介し「外国かぶれの変な音楽家」
サン=サーンスは、こうして、若いころは、「外国かぶれの、未来的な変な作曲をする音楽家」という扱われ方をしました。当時のフランスはイタリア・オペラなどの上演が多く、フランス独自の音楽作品はあまり演奏されていなかったのです。外国の、主にドイツのクラシック作品の素晴らしさを、演奏を通して痛感していたサン=サーンスは、当時フランスでは誰よりも早く、後にヨーロッパ中を魅了することになるドイツのオペラ作曲家、ワーグナーを評価したりもしています。
しかし、1870年、サン=サーンスが35歳の時、普仏戦争が勃発します。彼も従軍しました。パリも包囲され、その後のパリ・コミューンの時期はロンドンに避難したりもしました。アンチ・ドイツの国民的雰囲気が形成される中、サン=サーンスは、今まで存在しなかった「フランス独自の音楽」を作り出さなければいけないと考え、「フランス国民音楽協会」という団体を、音楽学校の教え子であったフォーレなどと共同で設立します。同時代のフランスで作られた音楽のみを演奏するこの団体は、19世紀後半の輝かしいフランス近代音楽を生み出す母体となります。
それでも、サン=サーンスのパリでの評価は変わりませんでした。作品が上演されるたびに、作曲家として無能だとか、不可解な未来の音楽作品だ、と保守的な聴衆におもねるマスコミから厳しく糾弾されたのです。