ヨーロッパの中で一番辺境の地にあったロシアでは、一方でロシア独自のクラシック音楽を作ろうと模索した「力強き5人組」が活躍した一方、あえてロシア的なものにこだわりすぎることなく、素敵な音楽を作り続けた人がいます。
ロシア最大の作曲家、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーです。今日は、夏休み明けということで、そんな彼の「懐かしい土地の思い出 Op.42 」という素敵なヴァイオリン曲の登場です。
法務省勤務から"脱サラ"し音楽院に
チャイコフスキーは、ロシア独自の音楽にこだわる音楽家からは「西欧派」のレッテルを貼られるほど、西ヨーロッパが好きでした。ロシアの奥地といってもよいウラル地方の出身でしたが、それは父親の鉱山の仕事の関係で、もともとはウクライナにルーツを持つ一族でした。彼は、父親の意向で法律を勉強し、一旦は法務省に勤務するものの、音楽への情熱が断ちがたく、設立されたばかりのペテルブルク音楽院に入学します。ここで、ロシア音楽教育界の基礎を築いたピアニストにして作曲家、アントン・ルビンシュタインに出会い、ひきたててもらい、卒業後すぐにモスクワに移り音楽協会で教鞭をとることになり、さらにアントンの弟、ニコライ・ルビンシュタインが設立したばかりのモスクワ音楽院の講師として迎えられる、という幸運に恵まれました。脱サラして音楽学校に入ったら卒業してそのまますぐ音楽のプロになった、というわけです。
音楽院の講師を12年続けながら、彼は自分の作品を次々に発表してゆきます。中には、「ピアノ協奏曲第1番」のように、初演まで紆余曲折があった曲もありましたが、総じて彼の創作活動は順調で、作品の演奏回数が増えるごとに名声も高まってゆきます。
鉄道王未亡人が資金援助、あこがれの西ヨーロッパへ
チャイコフスキーが、モスクワで教鞭をとってちょうど10年目の1876年、ロシアの鉄道王の未亡人である、ナジェダ・フォン・メック夫人という人から、手紙を受け取ります。音楽好きの未亡人は、後にもフランスの大作曲家となるドビュッシーを娘のピアノ教師として雇ったりしますが、チャイコフスキーにもロシア音楽界の希望を見たのでしょうか、彼に資金援助を申し出てきたのです。
それは不思議な関係でした。決して少なくない額を夫人から14年間にもわたって援助されます。しかし、生涯チャイコフスキーはメック夫人に会うことはなく、いつも手紙でのやり取りのみでした。
おそらく、その経済的基盤ができたということも一因か、モスクワ音楽院も、資金援助が始まって2年後には辞めてしまいます。そして、長年の希望を叶え、彼は西ヨーロッパへたびたびの旅行や長期滞在に出かけてゆきます。
「西欧派」の郷愁か
10年にわたる西ヨーロッパ――特に彼はイタリアとフランスには居住したので、両国は特に気に入っていたようですが――での長期滞在の最初の年、1878年にスイスにて着想されたのが有名な「ヴァイオリン協奏曲」ですが、その2楽章としてもともと企画されたのが、「懐かしい土地の思い出」の第1曲となっている「瞑想曲」でした。ヴァイオリン協奏曲のためには最終的にカンツォネッタ――これもイタリアの影響でしょうか――という2楽章を作ったため、この瞑想曲は単独で別の曲となり、そこに第2曲・スケルツォ、第3曲・メロディーという曲を合わせて、3曲からなる「懐かしい土地の思い出」という15分ほどのピアノ伴奏のヴァイオリン曲として仕上げられました。スイスで着想されたものですが、最終的に仕上げる段階で、メック夫人のウクライナ・ブライロヴォの別荘に滞在させてもらったため、その土地を懐かしんで、このような名前をフランス語でつけたといわれています。既に西ヨーロッパを満喫していたチャイコフスキーにとって、ウクライナの地が「懐かしい土地」に思われたのかもしれませんね。
現在では、チャイコフスキーらしい甘いメロディーにあふれたこの曲集は、組曲としても、単独曲としても、良く演奏されるレパートリーとなっています。また、他の作曲家によって、伴奏がオーケストラアレンジされたものも存在します。
本田聖嗣