日曜作曲家と自称したロシアのボロディンの名曲「ポロヴェツ人の踊り」

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   クラシック音楽と現在では呼ばれるジャンルの音楽が、ある国に導入されるとき、その黎明期に活躍する音楽家は、他に職業を持っていることが多くありました。今日取り上げる1曲は、日本の奈良観光のCMでもおなじみの「ポロヴェツ人(韃靼人)の踊り」です。これを作曲したのは、自らを日曜作曲家と称したロシアの作曲家、アレクサンドル・ボロディンです。

  • ボロディンの肖像
    ボロディンの肖像
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大学病院勤務の多忙な医師の一方、5人組の一人として音楽活動

   帝政ロシア末期、ロシアは近代化に躍起でした。政治のほうは近代会の過程で様々な軋轢を呼び、対外戦争も重なってついには革命そしてソビエト樹立と、激動の道のりをたどります。一方で、文化的には、どうだったのでしょうか?

   イタリア、ドイツ、フランスといったクラシック音楽の先進地域から、演奏する曲目も、演奏者も、直輸入の形で当時の首都サンクトペテルブルグを中心に導入されていましたが、ミハイル・グリンカがロシア独自の音楽を樹立するのだという志を持って作品を発表するようになり、それに共鳴するフォロワーが現れます。その中心人物がこのコラムで「イスラメイ」の作品とともに取り上げたバラキレフでしたが、彼のもとに結集したロシア音楽を推進するグループ「力強き5人組」は、実に様々な面々が集まっていました。

   バラキレフと知り合ったことによって、5人組の一人となり、作曲にも本腰を入れるようになったのが、ボロディンです。彼は、幼いころから音楽の才能を演奏と作曲両方で発揮していたのですが、当時はまだ音楽学校もロシアには存在せず、彼は医学学校に進み、陸軍病院や、大学病院に勤務する医者となっていました。力強き5人組のメンバーの本業が、軍人や医者が多いというのは、余暇を作曲などに充てられる職種が限られている社会状況を表しているようで、興味深いですね。ボロディンは、31歳で医科大学の教授に就任したので、本業の忙しさは並大抵ではありませんでした。医学者としての病院勤務のみならず、化学者として「ボロディン反応」というものを発見したり、当時のロシアの女性の社会的地位向上を女医の育成によって取り組んだりしたので、音楽以外の本業も多忙、音楽においても、交響曲、オペラ、ピアノ曲、歌曲そして音楽評論にまで手を出したので、目の回る忙しさ、その上、良き家庭人でもあったので、子供が寝静まってからしか作曲をしなかったとも伝えられています。

本田聖嗣プロフィール

私立麻布中学・高校卒業後、東京藝術大学器楽科ピアノ専攻を卒業。在学中にパリ国立高等音楽院ピアノ科に合格、ピアノ科・室内楽科の両方でピルミ エ・ プリを受賞して卒業し、フランス高等音楽家資格を取得。仏・伊などの数々の国際ピアノコンクールにおいて幾多の賞を受賞し、フランス及び東京を中心にソ ロ・室内楽の両面で活動を開始する。オクタヴィアレコードより発売した2枚目CDは「レコード芸術」誌にて準特選盤を獲得。演奏活動以外でも、ドラ マ・映画などの音楽の作曲・演奏を担当したり、NHK-FM「リサイタル・ノヴァ」や、インターネットクラシックラジオ「OTTAVA」のプレゼンターを 務めるほか、テレビにも多数出演している。日本演奏連盟会員。

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