「翼よ!」のリンドバーグと並ぶ"パリのアメリカ人"に
結局、大作曲家たちに師事することができなかったガーシュウィン、そんな気持ちを込めて自由な交響詩ともいうべき作品「パリのアメリカ人」を作曲し始めます。ジャズの要素も導入されたガーシュウィンらしい作品なのですが、本人は、当時の欧州最先端クラシック音楽の影響を公言していました。「フレーズはすべてオリジナルで、盗作では決していないが、冒頭からフランスの作曲家、ドビュッシーの影響があるのだ」、と語っています...後世のわれわれから見ると、ドビュッシーというより、同時代に活躍していたフランスの「6人組」やその精神的先駆者であったエリック・サティの影響のほうがはるかに濃厚に感じられるのですが、実際に「パリのアメリカ人」をやりながら作曲したガーシュウィンには、パリの音楽家や音楽環境が、ひたすらまぶしかったのでしょう。
ガーシュウィンがヨーロッパに渡航した1920年代終わりは、第一次大戦こそ経験していたものの、まだ第二次大戦には間があり、クラシック音楽の巨匠たちが輝いていた時代でした。ガーシュウィンは、ロンドン、パリ、ベルリン、ウィーンなどに滞在したのですが、そこで、再会したラヴェルを筆頭に、プーランク、ミヨー、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、クルト・ヴァイル、レハール、ベルク、そしてピアニストのホロヴィッツ、と近代の音楽史を代表するような錚々たる音楽家と会い、時にはアドヴァイスを受け、自作のコンサートを聞いてもらったのです。
ガーシュウィンが「自分が今まで試みてきたなかで最も現代的な音楽」と表現した「パリのアメリカ人」は、まさにそんなヨーロッパ旅行から帰国して完成され、ニューヨークで1928年の12月に初演されたときから大喝采を浴びました。ガーシュウィンは、音楽家としてだけでなく、アメリカを代表する才能ある若者として、1927年にパリに無着陸で降り立っていた飛行家、チャールズ・リンドバーグとも比肩する存在になっていったのです。
本田聖嗣