先週とりあげた、「ポーギーとベス」を書いたガーシュウィンは、クラシック音楽の器楽で親しまれている作品を残していますが、今週の主役は、自動車のクラクションが楽器として登場する愉快な曲、「パリのアメリカ人」を取り上げましょう。
ミュージカル作曲家として成功もクラシックへのあこがれやまず
先週触れたように、ガーシュウィンは、父の時代にロシアからアメリカにやってきた、移民2世でした。父親の代に経済的に一定の地歩を築き、子供たちは芸術の方面に進むことが出来たのです。アメリカに渡った多くの移民たちが、民族単位で相互扶助するグループをつくりましたから、ガーシュウィン家の子供たちも、ロシア系ユダヤ人のコミュニティーの中で活躍する、という選択肢もありましたが、彼らはそうせず、最初からブロードウェイを目指し、華々しい成功をおさめたのです。
ミュージカル作曲家として引っ張りだことなったジョージ・ガーシュウィンでしたが、25歳の時に、キング・オブ・ジャズと呼ばれていたニューヨークのバンドリーダー、ポール・ホワイトマンに半ば強引な形で「ラプソディ・イン・ブルー」というピアノ協奏曲の形をしたジャズとクラシックの融合的な作品を書くように勧められ、その大ヒットによって、アメリカの「新しい」クラシック音楽の作曲家としても注目されるようになります。「ラプソディ・イン・ブルー」はその名の通り、自由な狂詩曲的作品でしたが、その後、さらに「へ調の協奏曲」という、よりクラシックのスタイルを意識したピアノ協奏曲を書き、これも一定の評価を受けます。これらの作品は、広くアメリカでも、そしてヨーロッパでも上演され話題になり、ガーシュウィンは自作の公演を聴いたり出演したりするために、旧大陸に足を運ぶことも多くなります。経済的には十分に成功をおさめていたという理由と、ガーシュウィン自身のクラシック音楽へのあこがれが動機でした。