「アメリカ的本格オペラ」に転進、音楽に"南部"を採り入れ
しかし、そんなガーシュウィンの才能をもっていてさえ、すべての作品がヒットとはかぎりませんでした。1932年、「パードン・ミー・マイ・イングリッシュ(へんな英語でごめんなさい)」というミュージカルが大コケしたため、ガーシュウィンは、「真面目な作品」に取り掛かることを真剣に考え始めます。
それは、オペラでした。デュボーズ・ヘイワードの小説、「ポーギー」は、アフリカ系アメリカ人...南部の黒人を主役にした作品で、舞台化されていました。その後、オスカー・ハマースタイン2世などによるミュージカル化の案と、ガーシュウィンによるオペラ化の案が持ち上がり、ガーシュウィンは、初めてミュージカルとは一線を画した、「アメリカ人による、アメリカ的題材の本格オペラ」を作ることに意欲を燃やします。彼はこの作品「ポーギーとベス」を「民衆オペラ」と名付けました。サウスカロライナ州チャールストン出身の、ヘイワードの別荘に滞在したとき、近くのフォーリー島というところに、「ガラ人」と呼ばれる、アフリカ文化を最も濃厚に維持している黒人たちを取材することができ、ガーシュウィンの創作意欲は一層盛り上がりました。彼は、大都会NYのソングメーカーだったわけですが、ここで初めて、南部、そして都市部以外のアメリカの人々に直接触れ、それを自分の音楽の中に取り入れてゆくという作業を行ったのです。