商業音楽の先端NYで育ち、兄アイラとブロードウェイに
彼は、まだ十代の半ばから、ニューヨークの音楽出版社のあつまる「ティン・パン・アレー」とよばれた一角で、オーディオが未発達で、楽譜購入が音楽を買うという行為だった時代、楽譜店のピアノ弾きとしてアルバイトをしました。ヒットソングをその場でお客のために弾いて聞かせるわけです。そんなバイトつながりで、レヴューやミュージカルの稽古用伴奏ピアニストも引き受けたので、かれは若くして「商業音楽がどのように作られるか」を見ることが出来たのでした。もともと、旋律を作ることに天性の才能があったガーシュウィンは、次第に頭角を現し、作詞家として、兄のアイラ・ガーシュウィンと組んだりして、ブロードウェイに進出します。
25歳の時、ジャズバンドの指揮者にしてプロデューサー、ポール・ホワイトマンに半ば無理やりの形で書かされたピアノ協奏曲、「ラプソディ・イン・ブルー」が大成功をおさめ、「アメリカのクラシック作曲家」としても、注目されるようになったガーシュウィンですが、作曲家としての活躍場所は、ミュージカルにあったのです。クラシック音楽の演奏会では、自作を指揮したり、ピアノを弾いたりをしましたが、作曲家として、曲を作ることに生きがいを見出していたガーシュウィンは、コンサートホールだけでなく、ミュージカル劇場で、大いに輝いていたのです。