今週取り上げる曲は、先週の「シェエラザード」にもモチーフが引用されているピアノ曲、あらゆるピアノ曲の中で、もっとも弾きこなすのが難しい曲のうちの1つとして有名な、ロシアのミリイ・バラキレフの作品、「イスラメイ~東洋的幻想曲」です。
音楽上の熱烈な愛国者
バラキレフは、ヴォルガ河畔の交通の要衝、ロシア第4の都市であるニジニ・ノヴゴルドに1837年に生まれています。同地でピアノを習い、貴族の音楽愛好家から、さまざまなことを学び、十代の終わりになって帝国の首都、サンクト・ペテルブルグに上京します。ピアニストとして活動するつもりだったようです。
ただ、そこで、重要な人物に出会いました。ロシア音楽の祖、と呼ばれるミハエル・グリンカです。彼は、イタリアやフランスなどで学んだのですが、ロシアに新しい音楽の伝統を打ち立てねばならぬ、と思い始め、史上初めてのロシア人の手によるロシアの題材をもとにしたオペラなどを書いていました。青年バラキレフは、グリンカがまだ存命中に面識を得ることができ、その考えに引き込まれ、グリンカ亡き後の、ロシア音楽の牽引者となります。
グリンカも、バラキレフも、音楽上の熱烈な愛国者だったわけですが、その内容は、アンチ西欧、アンチ・アカデミズム、そしてアンチ・プロフェッショナリズムでした。かなり過激かつ排他的思想を持っていたのです。
ルービンシュタイン兄弟、チャイコフスキーらとは"一線"
一方、同じロシアの音楽の発展を願っていても、むやみに愛国的になるのではなく、むしろ、西欧に追いつこうとしている一団もいました。首都サンクト・ペテルブルグやモスクワに音楽学校を設立したルービンシュタイン兄弟や、その学校の第1期生チャイコフスキーなどです。彼らは、音楽の先進国に積極的に学び、題材も必ずしもロシア的なものだけに限定しませんでした。
音楽というのは、集団授業にあまりなじまない「職人芸」の世界です。作曲も演奏も、指導を受ける場合には「個人レッスン」が当たり前で、濃密な師弟関係を必要とします。そのために、音楽の世界では時として、師匠のもとに、彼の作風や思想に共鳴するいわば信奉者的な生徒たちが集うことがあります。ちょっと宗教に似たところがありますが、宗教も、音楽を大切にすることが多いですね。
コーカサス民謡もとに...難技巧の曲の象徴
バラキレフは、グリンカから正式に受け継いだ「ロシア音楽を興す役割」を忠実に果たそうとします。そのため、キュイ、ボロディン、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフら「日曜作曲家」を次々に誘って、仲間を結成します。「ロシア五人組」と呼ばれることが多いグループですが、原語では「力強き仲間」と名付けられています。この名からも、ずいぶんと力が入っていることがうかがえます。
アンチ・アカデミズムも標榜していた五人組は、無料音楽学校を音楽院に対抗してペテルブルクに創設したりしますが、主な活動は、グループで集まっての勉強会・発表会、そして、批評会でした。キュイやボロディンのように本業のほうがはるかに忙しい、日曜作曲家たちがメンバーだったにもかかわらず、力強い結束の中から、それぞれが、現代でも愛聴されているロシア・クラシックを生み出してゆくことになりました。
ピアニストでもあったバラキレフの代表的ピアノ曲が、「イスラメイ」です。超絶技巧の曲として有名で、後のフランスのラヴェルなどは、この作品を超える難技巧の曲を書きたい、といったように、たびたび難易度が高い曲の象徴として語られることの多い曲ですが、内容は、主にコーカサス地方に伝わる民謡をもとにした、「アジア的ロシア」の雰囲気を湛えたエキゾチックな曲です。クラシック音楽後進国であった東欧やイベリア半島の国々が自国のクラシック音楽を確立するときに使ったのが現地の民族音楽であり、「イスラメイ」もその流れの中にあります。5人組の先導者であるバラキレフの作品は、他のメンバーにも当然影響を与え、ボロディンやリムスキー=コルサコフの作品の誕生につながった、といわれています。
本田聖嗣