「見える・見えない」は「できる・できない」ではなく「世界の見え方の違い」
本書では、晴眼者には感覚的に知り得ない、視覚障害者にとっての世界が数多く示されている。
例えば、晴眼者は、月といえば立体としての球ではなく、「円」として認識しているが、生まれながらの視覚障害者は、月をボールのような球状をした形としてとらえているという。つまり、晴眼者は、絵や写真を通して、円く描かれた月が頭に刷り込まれており、月といえば、二次元の「まんまる」の形と思い込んでいるそうだ。他方、目の見えない者は、辞書の記述どおり、月を球として、概念的に正しく理解しているのだという。
富士山のイメージも同様で、晴眼者は「八の字の末広がり」、つまり「上が欠けた三角形」を連想しているのに対し、視覚障害者は三次元的に「上が欠けた円錐形」を心の中に描いているという
。つまり、晴眼者は自分で何度も目にした形に引き摺られて不正確な理解となっているのに、目の見えない者は、そうした経験にしばられることがないために、かえって正しい理解をしているのだ。
これは、中途失明者が、失明前にはコンビニに立ち寄ると、ついつい目に留まったキャンペーン商品を手にとってしまっていたが、失明後は、キャンペーン情報など視野にも意識にも届かないので、特に欲しいとも思わなくなり、必要な物だけを買うようになったという話につながる。
目の見える者は、見えるがゆえに、自らの経験や視野に囚われ、その視点からしか物事を把握できない限界があるが、見えない者は、情報量において制約がある一方、見えないからこそ、視点にしばられることなく、正しく認識し、「踊らされない」生き方が可能になっているというのだ。
また、視覚障害者は、見えない目に代わって、耳で「眺め」、足で「見て」、手で「探す」という。ベテランになると、初めての場所でも、周囲の会話や物音から、トイレはどこか、窓が開いているかどうか、家具の位置などをキャッチしている。足はサーチライトの役割を果たし、畳の目の向きから壁の方向を推測したり、自分の足元は土なのか、絨毯の上なのか、傾いているのか、平らなのかが、たちどころにわかる。著者の知り合いは、壁一面の本の中から、背表紙を触るだけで、目当てのタイトルを探し出してしまうという。
つまり、普通、目が果たすとされる「見る」機能は、他の器官でも果たし得るし、視覚障害者は、これらの器官をフルに活用して、「見て」いるのだ。