「ご飯が食べられなくなったらどうしますか?」(花戸貴司、國森康弘著 農山漁村文化協会)
「ご飯が食べられなくなったらどうしますか?」 風変わりな上に、ちょっと「不吉な」タイトルである。本書の著者、花戸医師(滋賀県東近江市永源寺診療所長)が外来に来られた患者さんに対し、しばしば口にする言葉だ。 多くの患者さんは次のように答えるという。
「どこも行きとうない。このまま家にいたいんやけど...」
「やっぱ最期まで、先生に診てもらいたいわ」
そして、花戸医師はいつも次のように笑って応える。
「大丈夫。何かあったら連絡してちょうだい。いつでも往診に行くからね」
「お迎えが来るときは教えてあげるから、それまでは畑をがんばりや」
一見、不吉なやりとりに見えるが、そこには、その場に居る者をホッとさせる安心の時間が流れる。
著者が診療する永源寺地区は、亡くなる方の半数以上が、病院に入院することなく自宅で息を引き取られているという。
本書は、病院で死ぬことがアタリマエの時代にあって、ふつうに自宅で天寿を全うできる地域がこの日本に存在することを、國森康弘氏による心のこもった味わい深い白黒写真とともに教えてくれる、実に心暖まる本である。
家で最期を迎えることのできる幸い
本書の中で、余命1カ月とされたまつえさん(83歳)のベッドに、3歳になるひ孫の「ゆずちゃん」がやってくる場面が出てくる。
「『ばーちゃん、寝てはるわ。ご飯やのに...起きーやー』と言ってまつえさんの顔をペンペンと叩く。周りにいた皆は目を丸くしたが、まつえさんは目を閉じたままニッコリ。続けて『ばーちゃん、きこえるか?』と、ゆずちゃんはまつえさんに頬ずりをした」
臨終を迎えつつある人に普段どおり接すること、その過程で、「命のバトン」を次の世代に引き継いでいくこと。いずれも、病院で亡くなる状況の下ではなかなか難しいことだ。
「高齢者の役割は、笑って人生を締めくくれる最期を次の世代に見せること。見送った側の人も『幸せやった』と思えるような最期であれば、『命のバトン』を次世代につなげていくことができるのではないだろうか」
住み慣れた家、長く生活を共にしてきた家族、遠くの親戚以上に親しく付き合ってきた近所の人々に囲まれて、「笑って人生を終えることができる」、これほどの幸いがあろうか。
自宅で最期を迎えるとは、決して、家で「死ぬ」ことが目的なのではない。むしろ、本書で、がんの進行により治療手段が無くなってしまった患者さんが語っているように、「がんが治らなくても、死ぬために家に帰るんじゃない。生きるために家に帰ってくる」のである。
旅立ちの前に、家で過ごす時間は、長さではなく、中身の濃さが違う。家に帰ってくることができたおかげで、最期まで「病気と闘う」ばかりではなく、最期まで自分らしく「生きる」ことができるのだという。
在宅看取りを支える「地域まるごとケア」
永源寺地区の看取りの文化を支えているのは、著者の花戸医師だけではない。本書では、
・ご近所さんも介護チームの一員
・病院と在宅ケアをつなぐMSW
・病と生きる人生に寄り添うケアマネージャー
・薬の飲み忘れを解決した薬剤師さん
・クラスメートがサポーター
・ヘルパーさんは縁の下の力持ち
・在宅ケアを支える訪問看護師さん
・生前からかかわるお坊さん
――と、永源寺地区のケアを支える人々について、それぞれ一節を割き、活躍の様子が紹介されている。
著者は言う。
「私は一人ひとりの患者さんだけでなく、永源寺という地域全体を診たい。たとえ大きな病院がなくても、皆さんの一軒一軒のお宅が病室であり、道路が廊下、携帯電話がナースコールであればいい」
「それを支えるのは、たった一人の医師ではなく、看護師さん、薬剤師さん、介護のヘルパーさんやケアマネージャーさん、市役所の方やその他たくさんのスタッフと、永源寺に住む地域の人びとだ」
「花戸の専門は何かと問われたとき、内科でも小児科でも在宅医療でもなく、『私の専門は永源寺です』と自信を持って答えられる医師になりたいと思っている」
本書を通じて、自宅で天寿を全うできる地域を実現するためには、「医療だ」「介護だ」などという狭い視野を捨てて、ご近所さんやお坊さんを含む地域の人々みなが一緒になって、地域全体を支える気持ちで取り組むことが欠かせないことを改めて感じた。
「地域まるごとケア」、実にいい言葉だ。
厚生労働省(課長級)JOJO