母2人、父5人・・・実父の消息は分からない
1958(昭和33)年7月13日。中島さんは京都・舞鶴港に着いた。下船すると、「歓迎中島幼八君」の黄色いのぼりが目に入った。女性2人と男性3人が近づいてきた。その中の一人、中年女性が中島さんの腕と引き寄せ、みるみる目を潤ませた。(この人が母親なのかな?)と思った。実母は何か言ったようだが、日本語がわからない中島さんには通じなかった。
いま中島さんは振り返る。日本は祖国だが、育んでくれた故郷は中国だ。養母はごく普通の女性で、自分たちの衣食に困る生活なのに、敵国日本の、瀕死の子供を受け入れ「私が育てます」と言い切った。気がつけば自分は古稀をすぎ、よくここまで生きてこられたと痛感する。
養母の最初の夫は病死。再婚後に離婚、そしてまた再婚したので、中国に養父が3人。実母も再婚していたので父親は計5人になる。さらにもう一人、親同然の人がいる。横浜で中華料理店を営んでいた任福財さんだ。中島さんが夜間高校の途中で大学受験を決意したとき、彼を引き取り2年間支えてくれた。
中島さんはその後、日本語を習得し、通訳として活躍、数多くの訪中団や平山郁夫画伯の楼蘭紀行に同道するなど日中交流に尽力、69歳で引退した。
悔しいのは召集された実父の消息が今も分からないことだ。父と同郷の軍人から「バイカル湖の近くの病院で見た」と聞いたが、シベリアの日本人抑留者名簿には名前がない。厚生省にも情報がない。無念さが募るばかりだ。
いま静かに目を閉じて親たちを思い浮かべるに、自分もいつのまにかその歳に近づきつつある。そしてこのごろ、これら親たちの御霊がつねにわが身に宿っているような気がしてならない、という。