実の母親に逢いたいだろう?
すっかり中国人になりきっていた中島さんに1955(昭和30)年、3度目の転機が訪れた。ちょうど小学校を卒業したころだった。日本の実母から照会があったというのだ。その前年、帰還事業に関わっていた中国紅十字会(日本の赤十字)の李徳全会長が初めて訪日、東京・椿山荘で開かれた歓迎会に中島さんの実母が現れ、自分の息子についての調査を直訴したのだという。
56年に入ると、日本の実母から郵便小包が届いた。中にはジャンバーやナイロンの靴下が入っていた。実母は必死だった。その様子を知るにつけ、養父母も心が動かされたようだ。「私たち夫婦には男の子がいないが、将来幼八が大きくなったら必ず帰国させて、あなたと団らんさせます」――あとで知ったのだが、このときそんな礼状を実母に送っていた。
57年、さらに決定的なことがあった。恩師として慕っていた中国人の教師・梁志傑先生と二人きりで話したとき、「君は日本に帰りたいという気持ちはないのか」と突っ込まれたのだ。
「君だって、実の母親に逢いたいだろう?」
「僕はとくに逢いたいとは思いません」
別れて10年ほど。親と言えばむしろ養母のことだ。そんな自分の気持ちをありのままに伝えたが、恩師は当時、長崎国旗事件や岸内閣の台湾重視で悪化する一途の日中関係を憂えていた。
「君が日本に帰ったら、日中友好のために一生懸命やってくれるとうれしいなあ」。
それまで漫然と日々をすごしていた中島さんだが、初めて自分の置かれている立場に気が付いた。そして恩師の期待に応えたいという意識が芽生えた。
「僕、日本に帰ります」。