元残留孤児の中島幼八さん、日中両国で回想記を出版 日本版「この生あるは」/中国版「何有此生」

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どちらの親を選ぶか

   「この幼い命がかわいそうだ。私が育てます」――名乗りを上げたのは、行商人と顔見知りで、のちに養母となる孫振琴さんだ。中島さんには来福という新しい名前が付けられた。福が来るようにという期待が込められていた。

   この開拓団から「孤児」となって現地に残ったのは中島さんだけではなかった。のちの開拓団の調査では15人の名前がある。ほぼ同じ地域で「孤児」として過ごしていたので、中島さん自身、ほとんどが顔見知りだった。

   「中国人」になった中島さんには、大きな転機が3回あった。最初は、預けられて半年ほどたったころ。まだ現地にとどまり、体力が回復してきた実母キヨさんがとつぜん養母宅に来て中島さんを連れ去ったのだ。この行動に村の中国人たちは怒った。苦しいときには預け、状況が変わったから奪い返すとは何事だ、というわけだ。他に多くの孤児が中国人の養子になっていることもあり、開拓団関係者も困った。そこで役所が仲裁に乗り出し、実母と養母を20メートルほどの間隔で立たせ、真ん中に3歳半の中島さんを置いて、どちらに近づくかで親を決めることになった。

   中島さんはまっしぐらに養母に向かって走っていた。実母はショックを受けたが、翌日、養母宅に来て「子供のことをよろしくお願いします」と頭を下げ、まもなく開拓団員らとともに帰国の途についた。

   2回目の転機は1951(昭和26)年のことだった。小学校の全校集会で日本人の子の名前が一人ずつ読み上げられ、近隣の大きな町の集会に行くように言われた。会場に着いてみると、この地域一帯の数十人の日本人孤児が集められていた。10歳前後の子供が多かった。そこで初めて、近く日本への帰還事業が始まること、帰りたい人には中国政府が全面的に協力するということが伝えられた。ただ、日本の家族の所在は分からないという。帰還を望んだ子供はゼロだった。

【中国残留孤児】戦後、中国に残された日本人の孤児。主として旧満州で肉親と離れ離れになり、中国人の養父母に育てられた。中島さんの帰国時はまだその存在が日本国内ではほとんど知られていなかった。しかもその後の日中関係の冷え込みで、さらに情報が途絶えた。1972年の日中国交正常化を受けて、一部民間団体が孤児探しに動き出し、81年からの厚生省を中心とした訪日調査で大量の中国孤児の存在が明らかになり、日本社会に大きな衝撃を与えた。これまでに孤児約2600人が永住帰国している。

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