元残留孤児の中島幼八さん、日中両国で回想記を出版 日本版「この生あるは」/中国版「何有此生」

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   戦後の混乱の中で1958(昭和33)年、「中国残留孤児」として旧満州からたった一人で日本に戻り、のちに中国語通訳として日中交流に尽力してきた中島幼八さん(73)が、このほど孤児時代の回想記を出版した。日本語版のタイトルは「一中国残留孤児がつづる―この生あるは」(幼学堂刊、亜東書店発行)。中国語版は「何有此生」(北京三聯書店刊)。日本語版はすでに出版されており、中国語版は7月1日に出版予定だ。元残留孤児が自伝を出すのは珍しく、日中両国で出版するのは初めてとみられる。

  • 「一中国残留孤児がつづる―この生あるは」。7月に中国語版「何有此生」が出版される
    「一中国残留孤児がつづる―この生あるは」。7月に中国語版「何有此生」が出版される
  • 京都・舞鶴港での出迎え(中央が母・キヨ)
    京都・舞鶴港での出迎え(中央が母・キヨ)
  • 母・キヨ(右)と再会。左は伯母
    母・キヨ(右)と再会。左は伯母
  • 父・中島博司と母・キヨの結婚写真
    父・中島博司と母・キヨの結婚写真
  • 養母・孫振琴と2番目の養父・李希文(1970年ごろ)
    養母・孫振琴と2番目の養父・李希文(1970年ごろ)
  • 3番目の養父・趙樹森(1960年ごろ)
    3番目の養父・趙樹森(1960年ごろ)
  • 恩師・梁志傑先生と中島少年(1956年)
    恩師・梁志傑先生と中島少年(1956年)
  • 13歳のときに誂えてもらった学生服の上衣。一緒に海を渡ってきた
    13歳のときに誂えてもらった学生服の上衣。一緒に海を渡ってきた
  • 6年間通った沙蘭小学校(1987年撮影)
    6年間通った沙蘭小学校(1987年撮影)
  • 著者近影
    著者近影
  • 「一中国残留孤児がつづる―この生あるは」。7月に中国語版「何有此生」が出版される
  • 京都・舞鶴港での出迎え(中央が母・キヨ)
  • 母・キヨ(右)と再会。左は伯母
  • 父・中島博司と母・キヨの結婚写真
  • 養母・孫振琴と2番目の養父・李希文(1970年ごろ)
  • 3番目の養父・趙樹森(1960年ごろ)
  • 恩師・梁志傑先生と中島少年(1956年)
  • 13歳のときに誂えてもらった学生服の上衣。一緒に海を渡ってきた
  • 6年間通った沙蘭小学校(1987年撮影)
  • 著者近影

「悲劇の子」として記事になる

   「日本語を知らぬ少年 ただ一人、白山丸で帰る」――昭和33年7月13日の朝日新聞は、「最後の帰還船」白山丸で、単身帰国した中島少年のことをそう伝えた。当時16歳。「さびしげな表情を浮かべた『悲劇の子』」と紹介されている。

   実は戦後しばらくたっても、中国にはまだ数万人の日本人が残っていた。そのことは、日中両国政府は認識していたものの、国交がなかった。日本の赤十字、中国の紅十字などが中心になり、1953(昭和28)年になってようやく帰還事業が始まり、興安丸、白山丸などの「帰還船」で順次帰国した。最後となったのが、昭和33年の第21次帰還船・白山丸だった。乗船していた帰還者579人の中で身寄りのない子供は中島さん一人だけ。そんなこともあり当時「悲劇の子」としてマスコミでも取り上げられた。

   中島さんの父、博司さんは戦前、東京でクリーニング店に勤めていたが、青雲の志を抱いて1943(昭和18)年、東京都の第十次満蒙開拓団で満州に渡る。入植地は牡丹江省、いまの黒竜江省寧安県。冬はマイナス35度にもなる山間地だった。

   開拓団の一員として開墾作業に従事していた博司さんだが、敗戦直前の1945(昭和20)年7月26日、召集。まもなくソ連の参戦と関東軍の敗走で現地は大混乱となり、この地域の約500人の開拓団員たちの逃避行が始まった。そのなかに当時3歳の中島さん、8歳の姉、妊娠6か月の母キヨさんもいた。

   食糧難と厳しい寒さ、そして収容所に蔓延する疫病。冬を越せないまま団員たちの約3割が亡くなった。極限状態の中で子供の首を絞め、自らは死に損なって放心状態の母親もいた。中島さんの妹も、生まれてすぐ栄養失調で死んだ。「このままでは幼八も長くは持たない」。そう考えた母のキヨさんは、旧知の中国人の行商人に「だれかいい人がいたら預けてくれませんか」と頼み込み、泣く泣く彼を手放した。

【中国残留孤児】戦後、中国に残された日本人の孤児。主として旧満州で肉親と離れ離れになり、中国人の養父母に育てられた。中島さんの帰国時はまだその存在が日本国内ではほとんど知られていなかった。しかもその後の日中関係の冷え込みで、さらに情報が途絶えた。1972年の日中国交正常化を受けて、一部民間団体が孤児探しに動き出し、81年からの厚生省を中心とした訪日調査で大量の中国孤児の存在が明らかになり、日本社会に大きな衝撃を与えた。これまでに孤児約2600人が永住帰国している。

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