「顕教」と「密教」...持たざる「大国」の苦悩の果てに

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『未完のファシズム 「持たざる国」日本の運命』(片山杜秀著、新潮社)

   業務関係の書物は必要に迫られて読む性格で、自分の時間の読書は、その時の関心の赴くままに任せている。この機会に改めて最近の読書の傾向を見返してみて、最近の中韓との確執、集団的自衛権の議論の影響もあるのだろうが、日本現代史、特に明治の日清・日露戦争から第二次世界大戦での敗戦に至る日本軍の周辺に関する書物をよく読んでいることに気がついた。新刊本をみても、結構この手の書物は新書を中心に出ているので、私だけの傾向ではないのかもしれないけれど。そのきっかけとなった本、片山杜秀著「未完のファシズム」を取り上げたい。

   著者は、政治学・歴史学が専門のようだが、クラシック音楽の評論でも注目を集めている異色の人だ。NHK-FMで「クラシックの迷宮」という番組も担当されていて、こちらの面でも私は独自の視点での評論を楽しむ機会が多いが、本書では、第二次世界大戦の敗戦に至る背景分析という、機微なテーマでもあり様々繰り返されている議論を、帝国陸軍の小畑敏四郎、石原完爾、中柴末純といった、当時の軍のポリシーに強い影響を与えた人物の思想・行動を読みとくという独特のアプローチで、新たな仮説を検証している。「日本の軍隊は、第一次世界大戦を学びすぎたがゆえに、...極端な精神主義に舞い戻ってゆかざるをえなかったのだと。」その切り口が、「顕教」と「密教」である。

  • 未完のファシズム 「持たざる国」日本の運命
    未完のファシズム 「持たざる国」日本の運命
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第一次大戦後に改定された「統帥綱領」=「顕教」

   1914年、第一次世界大戦開始の年に制定された日本陸軍の「統帥綱領」。制定当初は物量戦・科学戦という近代戦の常識を踏まえたものであったのに、1926年、第一次大戦後の改定では、速戦即決の殲滅戦を前提として精神主義が強調される一方、兵站の項目は削除されるなど、日米戦争における補給なき戦闘やバンザイ突撃、玉砕の情景が透けて見える内容となっている。しかし、実は、それを主導した小畑敏四郎らには、第一次大戦後の総力戦のあり方に対する評価として、日本陸軍に当分の間その能力はなく、その上で日本を防衛するには即決型の殲滅戦しかないという判断があった。そもそも日本が装備・物量に優れた一流国の大軍と長期に戦うなどありえず、短期戦で勝利するためには精神力や機略を強調せざるを得なかった。「統帥綱領」という「顕教」は、このような「密教」が前提であった、というわけである。

   独断で満州事変を主導した石原完爾や、「生きて虜囚の辱めを受けず」の一節で有名な「戦陣訓」の作者のひとりといわれる中柴末純も、米国のような一流国とその当時に戦争をしては勝てないという考えは同じであった。石原完爾には、その思想的背景から日本がいずれ第一次大戦を凌駕する規模の大戦争の一方の主役となるとの信念があったが、しかし日本を「持てる国」にするまでは何十年か長期の大戦争をしてはならないと考えていた。日米戦争でのアッツ島玉砕を賛美した中柴末純にとって、玉砕できる軍隊を作ること自体が「持たざる国」の必勝兵器であったが、その中柴も物の力において敵を圧倒することのみが敵を撃破する唯一の方法であることを実は認めており、玉砕の賛美も、結局「持たざる国」が「持てる国」と正面戦争をしうる格好を取り繕っておくための方便にすぎなかった、とする。

【霞ヶ関官僚が読む本】現役の霞ヶ関官僚幹部らが交代で「本や資料をどう読むか」「読書を仕事にどう生かすのか」などを綴るひと味変わった書評コラムです。

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