運動の陥穽
官僚の無謬性を信じる者がない現代であれば、戦前政府・旧軍の無謬性の主張に説得力はあるまい。事実、伏せられていた政府・旧軍の虚偽や過ちは、戦後に発掘され、真摯な反省と厳しい批判の的になってきた。
評者思うに、そうした真実発見という正義のもとに集団ができ、集団ができると集団自体が意思を持って運動が始まり、運動はそれ自体が自己目的化し、果ては事実を歪める、といった経路があったのではあるまいか。
仮にそうなら、過ちは左右を問わず生じうる。
美醜両面あった神風特攻隊について、本書はほぼ美のみを記す。善解すれば、醜のみ喧伝する左派運動への反作用ではあろう。だが反作用が運動と化し、仮に行き過ぎが生じるならば、真実が別の彼方に遠ざかる惧れもある。
本書がそうした行き過ぎを孕みうるかは読者の判断に委ねるべきところだが、著者が一部の右翼史観をも一刀両断にするくだりは、将来の弊害を封じる配慮でもあろうと、評者は受け止めたい。