海舟の陰徳
毒舌家の海舟ではあったが、隠れた徳行が数多くある。
江戸城無血開城以来、一貫して徳川家の安泰を図り、慶喜の名誉回復を陰に陽に新政府に働きかけ続けている。慶喜が如何に拗ねても見放さない。勝家の養子に慶喜の末子を迎え安泰を図る姿を見れば、海舟が敢えて爵位を受けたことも得心がいく。
工作が奏功し、維新の30年後に慶喜が明治天皇と親しく会食した際、海舟は七十六歳であったという。「生きていた甲斐があったと思うて、思わず嬉し涙がこぼれた」と喜ぶ言葉に、武士としての面目が顕れる。
落ちぶれて生活に苦しむ旧幕臣が多くある中、その面倒見も徹底している。
本書が度々引用する「会計荒増」なる海舟の金銭出納簿によれば、金策に奔走しながら、誰に幾ら彼に幾らと、窮乏する旧幕臣に実に小まめに金を渡している。海舟は実子の留学費用さえ全て取り崩してこの支援に充てたという。無私の姿勢は、当時の高官の贅沢や蓄財しつつ政府に無心する実業家と鮮やかな対比をなす。