京都で「先の戦争」というと、太平洋戦争こと第二次世界大戦ではなく、室町時代の15世紀に起きた足利将軍家の跡目争いなどを発端とする応仁の乱のことを指す、というエピソードがあります。文化財の多い京都をアメリカ軍が爆撃対象からなるべく外したので、京都市街の被害としては、応仁の乱のほうが深刻だった、という事実もありますが、それよりもこの話は、京都が都市として長い歴史を持っている、ということを比喩的に表している、というところがミソなのでしょう。
「音楽の都」として有名なウィーンにも、似たエピソードがあります。「黄金のリンゴ」と呼ばれるウィーンは、15世紀にはハンガリー軍に、19世紀にはナポレオン率いるフランス軍に、1938年にはナチス・ドイツに、1945年にはソビエト軍に占領されていますが、街の記憶として、最も強く刻まれているのは、1529年と1683年にウィーンに襲来し、結局占領できなかったオスマン・トルコ軍です。現在でも、街の中に当時の痕跡を見ることが出来ます。
音楽の都で花開いたクラシック音楽にも、オスマン軍の足跡がしるされています。今日の1曲は、モーツアルトのピアノソナタ、KV.331の最終3楽章、通称「トルコ行進曲」です。トルコ行進曲と名の付く作品は、ベートーヴェンにも、他の作曲家にもありますが、まずオーストリアを代表する作曲家とされている、モーツアルトの作品から取り上げたいと思います。
今も街に残る"記憶"と"ファッション"
ウィーンを占領しなかったのに、トルコがウィーンの人々の記憶に残ったのは、彼らが、西欧と違う宗教・文化の人たちだったというだけではなく、異なる「音楽」を持ってきたからです。大陸軍国だったオスマン・トルコ軍は、傭兵の多い軍隊でもありました。大陸軍を編成するためには、自国民だけでは足りなかったのです。そして、言葉も武器も異なる歩兵たちを指揮するには、命令を言葉で発するより、後ろのほうで、大きな太鼓で大音量の音楽を鳴らすほうが効果的だったのです。その軍楽に合わせて怒涛の突撃が始まるわけです。また、都市を包囲攻撃する際、その音楽を常にかき鳴らして、相手側住民を怯えさせて、開城を早めるという効果もありました。ベオグラードやブタペストといった、東欧の都市は次々と、陥落しました。
モーツアルトがこのソナタを作曲したのは、詳しくは判明していないのですが、1783年ごろといわれています。ポーランド軍と、ハプスブルグ家の援軍によって、包囲が解かれ、オスマン軍が敗走した時から、ほぼ100年後になるわけですが、ウィーンでは、トルコ風のファッションと、トルコの軍楽隊のリズムが、ファッションとして語り継がれていたわけです。アラビア世界からもたらされた黒い汁、コーヒーもその中に含まれます。ウィーンといえば、コーヒーハウスというぐらい、その後のウィーンの都市文化に定着しますが、これもおそらくオスマン軍の置き土産だといわれています。モーツアルトも、ひょっとしたら、カフェに通いながら、この曲を作曲していたかもしれません。彼は、「後宮よりの逃走」という、ハーレムを舞台にしたオペラも書いていますから、トルコ風、という異文化風俗をかなり気に入っていたと思われます。
ちなみに、当時、ピアノに小さな鈴をつけてペダルでそれを鳴らすことのできる楽器が存在し、「トルコ行進曲」では、それを奏者が曲中で「チーン、チーン」と鳴らしながら演奏したこともあったようです。さしずめ、トルコ行進曲専用ピアノ、ですね。
同じオーストリアでも、ザルツブルグの出身だったモーツアルトは、帝都ウィーンでは受け入られなかった部分もあり、決して幸福ではなかったのですが、彼は、街の流行を自作に取り入れて、ウィーンの人々に馴染もうとした、そんな気配りもこの曲からは感じられます。
本田聖嗣