年末を代表するクラシック曲がベートーヴェンの「第九」だとすると、新年を象徴する音楽は、名門ウィーンフィルのニューイヤーコンサートで演奏されるシュトラウスファミリーのワルツやポルカ、ということになるでしょうか。今日取り上げるのは、いつも、コンサートの最後に演奏され、観客も手拍子で参加する人気曲、「ラデツキー行進曲」です。
「ラデツキー行進曲」は父1世の作品
今や世界の多くの国でテレビ中継されるようになった、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートは、年頭を飾るクラシックの名門演奏会です。そのチケットの入手は大変困難、とされていますが、テレビ中継では、ウィーンフィルの音楽に合わせて異なる会場で踊られているバレエを同時に放送したりするので、テレビのプログラムとしてもたいへん楽しめます。
このコンサートは、何といっても「ウィーン」ということにこだわっているので、19世紀に大流行した、シュトラウス一族のワルツやポルカが中心的な曲目です。そして、もっとも多く演奏されるのが「ワルツ王」と呼ばれるヨハン・シュトラウス2世の作品たちです。ウィーンにはハプスブルクの王の他にもう一人王がいる、シュトラウス2世だ、と言われたぐらい、当時の彼の活躍は目覚ましく、自作のワルツやポルカを演奏したり指揮したりする、いわば、スーパーアイドル、でした。本人があまりに忙しすぎたので、音楽とは別の仕事についていた弟たちを、無理やり、音楽の仕事に引き込んだぐらいでした。
しかし、そんな、シュトラウス2世の作品が多く演奏される、ニューイヤーコンサートの定番曲の中で、ラデツキー行進曲だけは、彼の父・シュトラウス1世の作品です。この親子には確執がありました。
「革命の嵐」が加速 父=宮廷派、息子=改革派
もともと、父・シュトラウス1世は、ヨーゼフ・ランナーという音楽家が率いる楽団のヴァイオリン弾きから身を起こし、自らの楽団を育て上げ、人気音楽家になった人でした。折からのワルツブームに乗り、民衆の踊りであったワルツが、ついに宮廷にまで採用されるという時代の波にも乗ったのです。その一方、家庭を顧みず、シュトラウス2世と弟たちを母のもとに残し、家を出る...ということもしました。そのため、シュトラウス2世は、父を同じ土俵で見返すといわんばかりに、母や周囲のサポートを受けて、父に対抗する形で、地元ウィーンデビューを飾ったのです。親子の才能は、ウィーンで火花を散らしたのです。
大体、親子という関係は、年長者である親が保守派、若い子供が改革派、となるのですが、この親子も似たところがありました。時代も関係しています。隣国フランスから「革命の嵐」がウィーンにももたらされ、ハプスブルグ帝国は揺れに揺れていたのです。息子2世は、当然市民による「改革派」に熱心に支持され、低い身分から、宮廷にまで認められた父1世は、「宮廷派」と、みなされたのです。
将軍の戦勝はハプスブルグ帝国の最後の輝き
フランス革命後にあらわれたフランスの英雄、ナポレオンに蹂躙されたり、北方プロイセンに戦争を仕掛けられたり、とこの時代のハプスブルグ家は、戦争では負けっぱなしの状況が続いていました。その中で、唯一、当時まだオーストリア(ハプスブルグ)領であった、北イタリアの独立運動を、抑え込んだ将軍が、ラデツキー将軍でした。その将軍の戦勝をたたえて、新兵募集の歌詞をつけて、ラデツキー行進曲は、ハプスブルグ帝国の最後の輝き、といわんばかりに、人気曲となりました。
息子シュトラウス2世の人気ワルツやポルカに囲まれて、シュトラウス1世のラデツキー行進曲は、あたかもハプスブルグ帝国最後の残照、のように、ウィーンフィルのニューイヤーレパートリーとして、今年も輝いています。
余談ですが、ウィーンの名物、「ウィンナーシュニッツェル」というカツレツ料理は、ラデツキー将軍がこのとき、ミラノから持って帰った「カツレツ・ミラネーゼ」がもとになっているといわれています。
本田聖嗣