海外から風習や行事や習慣を取り入れて、日本独自のものにする、または独自に発展する、というのは、極東の島国にとって、まさにお家芸です。古くは、隣の大陸や半島からやってきた、文字や、社会制度や、宗教を日本独自のものに変え、日本文化を形作ってきました。長い江戸期の鎖国から解けた明治文明開化時期には、主に西欧からいろいろなものを取り入れました。近年、鉄道技術などの産業製品は、本家イギリスを追い越して、輸出されるようになったりしています。最近ドイツでも、年末に「第九」が演奏されることが多くなっているといいますから、これもひょっとしたら、逆輸出(?)かもしれません。
演奏に大編成必要で演目から長らく除外
ベートーヴェンが、封建的な旧体制から、今日ほどではなくても、共和的、民主的世の中にヨーロッパが変わってゆく時期に活躍し、本人も、宮廷の従属技術者、から、一般民衆に支持される芸術家であろうとした、ということを先週書きましたが、作曲家がそうならば、演奏家は、どうだったのでしょうか?
実は、1人でできる作曲家より、事態は複雑だったのです。
宮廷が、オーケストラなどの演奏団体をほぼ独占している時代、一般市民社会に「プロのオーケストラ」などはもちろん、存在しませんでした。日曜演奏家や、教会の合奏団はいましたが、ベートーヴェンの「第九」のような、当時としては大編成のオーケストラに、かなりの人数の合唱団が必要な曲を演奏できる演奏団体なぞ、どこを見渡しても存在しませんでした。「第九」が、初演後、長らく再演されなかった理由です。初演の時も、合唱団員はほとんどアマチュアだったともいいますし、この大規模作品を歌えるプロの合唱団が見当たらない、という理由で、せっかくの第4楽章を省いて、第3楽章まで演奏されることもありました。
話が変わりますが、私の母校、パリ国立高等音楽院は、「コンセルヴァトワール」と呼ばれます。直訳すれば、「保存する学校」。どういう意味かというと、市民革命を起こして、王家をほとんど処刑してしまったフランスが、王家が保持していた音楽の伝統だけはいいものだから残そう、ということで、設立された学校なのです。政治体制は一新しても、芸術は、「保存する学校」で教育を行って、伝統を絶やさないようにしよう...血なまぐさい革命の中にあっても、芸術保存を考える人は存在したのです。