「明治の政治家たち―原敬につらなる人々―」(服部之総著、岩波新書)
服部之総(はっとり・しそう)は、昭和初期から戦後にかけて活躍した日本近代史家。羽仁五郎等とともに、マルクス主義全盛期に刊行された「日本資本主義発達史講座」の主要寄稿者であり、いわゆる「講座派」の中心メンバーである。バリバリのマルクス主義者の彼が、「たれにもすききらいはあるものだが、明治大正の政治史をひもどいて、傾倒することのできる人物―(中略)全力を挙げて書いてみたいと言う衝動のうえのことであるが―といえば、大久保利通・星亨・原敬の三人くらいのものである」「政友会総裁原敬の生涯には、その大久保と星の宿命が統一されているのである」と本書のまえがきで原敬への思いを述べている。
立憲政治確立が生涯の政治的目標
岩波新書上下二冊、上巻は昭和25年、著者の健康状態が原因で5年ほど間が空き、下巻刊行は吉田内閣退陣と同時期の29年末、服部の没年は昭和31年である。昭和期のマルクス系の学者たちは殊更に文章を難しく書くことを好み、現代の我々が読み通すのはしばしば難渋するが、服部の歴史エッセイの文章は、職業歴史家とはことなり(彼は、共産党弾圧後は、アカデミズムからは遠ざかり花王石鹸に籍を置いていた。)、時に独断的とも思えるほどの明快さと、小気味よい語り口を持っており、一読巻を措く能わず、読後も鮮烈な印象が持続する。同じ講座派の羽仁五郎による名著の誉れ高い岩波新書赤版「ミケルアンヂェロ」よりも、自分は、本書の方が楽しめると思う。
「原敬につらなる人々」という副題が示す通り、服部は、明治大正の政治史の流れの行き着くところ、原敬という賊軍南部藩出身の純血種郷士にその本質が顕現するという見地に立って論を進めている。冒頭に原敬を表題とする章を置いて彼の出生について語ったのち、陸奥宗光、星亨、伊藤博文、板垣退助、大隈重信、山形有朋、桂太郎、西園寺公望、そして最後に再び原敬を取り上げる評伝形式をとっているが、それぞれの章では特に表題の人物を中心に描くのではなく、自由民権運動の頂点から国会開設、藩閥内閣の全盛と、民党・吏党の対立、日清日露を経て桂園時代が到来し、原敬の権勢が確立する辺りまで、政治史の流れを緻密に追いながら、表題の人物を含む、明治の主要な政治家たちの人物スケッチを織り交ぜて飽きさせない。
マルクス主義者服部の見るところ、明治時代はブルジョア革命前の絶対主義時代であり、その代表的政治家である原敬は、若年においてすでに後年の政治的座標を確固たるものにする見地を有していた。すなわち、「後世おそるべき老成の絶対主義的見識......かかる見識はこれ以上ぜったい発展しない。(中略)なぜならそれは事物の核心をその見地から把握し、その見地からはもはやこれ以上の把握はありえずかつそれで充分であるほどに徹したものであるからである」という評価であり、原敬在世中の番記者であり、「原敬伝」上下を著した前田蓮山がその典型であるように、賊軍出身の立場から、薩長藩閥政治を打破して、立憲政治を確立することを生涯の政治的目標とした、爵位を持たぬ「平民宰相」像とは異なった原敬を描こうとしている。