ジャーナリズムと学究への懐疑
著者の目的は、鈴木商店の名誉回復ではあるまい。鈴木商店の一事を以て、歴史というよりも人間活動の過ち易さを述べたかったのではあるまいか。
当時の新聞報道はどうであったか、またその後の歴史検証における学者の仕事がどのようなものであったか、そして焼き打ちの背後にどのような勢力のどのような思惑があったのか。そういった事柄を、多くの生き証人にインタビューを行い、一次資料にあたり続けることで、浮き彫りにさせていく。
いわば調査報道の王道を往くかのような丁寧な作業と事実の適示である。他方で当時の報道について、著者はこう記す。「新聞はつくられるだけでなく読まれるものである。攻撃が重なるにつれ、第三者である多数の民衆が、鈴木に対する悪い虚像を徐々に持たされて行く。重なれば重なるほど、虚像は実像となる。」
学問なるものにも容赦はない。米騒動に関する権威ある研究書について、著者はそこで引用される文書の証言者を訪ね歩き、鈴木商店に関する証言が「三つとも信憑性のないものとわかった…予断に満ちた圧縮と言ってもよい」と結論づける。
これはそのまま、当時あるいはその後の戦後社会における報道や学問のあり方に対する一つの挑戦であろう。伝聞のみで構成される報道や学説の危うさを、これほどまでに鮮やかに、しかも批判的記述を極力抑制した事実の積み重ねで示した書を、浅学菲才の評者は知らない。