殷の湯王のごとく現代日本人の徳は昆虫にまで及ぶのか
趣味の技術論も根気よく読み通してみると、多種多様な昆虫が日本中にまだまだ生息していること、そして昆虫を知るにはまず植物を知るべきことがよく理解できる。とすれば昆虫採集家は、街を歩いていても街路樹の名前や、そこを住処とする昆虫とその生態がすぐに思い浮かぶのだろう。
そうした知識があれば、季節の移ろいや自然の息吹をより生き生きと感じられることだろう。普段は目に入らないだけで、昆虫は今もそこかしこに生きている。
そう思えば、日本の詩情にも昆虫は頻繁に登場する。
三木露風の童謡「夕焼け小焼けの 赤とんぼ 負われて見たのは いつの日か」、芭蕉の「閑かさや 岩にしみいる 蝉の声」などは直ぐ思い浮かぶ。
トンボの採り方が紹介されているくだりで思い出したのは、「蜻蛉釣り 今日は何処まで 行ったやら」という、帰らぬ亡き子の遊ぶ姿を偲ぶともされる哀切な句だ。加賀千代女の作とも言われるが、どうやら作者不詳らしいと聞くと、尚更のこと、市井の名も無いひとの親心を思わされる。
昆虫はこのように、いつの世も子どもたちの遊び相手を務めてくれてきた。その遊びの中から、子どもは多くのことを吸収し学んでいく。
命を大切に、という倫理はまことに正しい。とはいえ標本作りを批判する生徒で溢れる学校には違和感を禁じ得ない。殷の湯王の徳は禽獣に及ぶに至ったというが、現代日本人の徳は昆虫にまで及ぶのか? と皮肉の一つも言いたくなる。標本を批判する子供も、ハエやゴキブリは殺せと教えられ、さしたる疑問も抱くまい。地球上の生命を完全に平等に尊重することなど不可能だ。ジビエを食べる捕鯨反対論者を見よ。首尾一貫させるならいっそ給食もベジタリアンにしてはどうか。それが出来ない以上、所詮人間は自己本位なものだという諦念をも教えて良いのではないか。
生命や倫理についての言及を避けた筆者らの思いを勝手に忖度すると、以上のようにも想像してしまう。が、実際は「好きでやっていること、放っておいてくれ」といったところかも知れない。釣り人も「魚がかわいそう」と言われれば無視するしかなかろう。
この夏は、我が子らを虫取りに連れて行くこととしよう。
酔漢(経済官庁 Ⅰ種)