日本と中国の、国同士の関係のぎごちなさが目立つようになる一方で、日本人の男性と中国人の女性による、二人の出会いから、短くもお互いを思う結婚生活などについてつづられた手記がこのほど出版された。「恵恵(フィーフィー)日中の海を越えた愛」(恵恵、岡崎健太、付楠、文芸春秋刊、1400円=税別)。タイトルと、著者の一人としても名前がある中国人女性、恵恵さんは2004年12月に岡崎健太さん(37)と出会う。愛を育み翌年には結婚式の運びとなったが、婚約時に乳がんが見つかった。病苦を乗り越え挙式するが、恵恵さんは病気が再発し11年6月に帰らぬ人となった。
最初の反日暴動の年に留学生とOBとして出会う
共著者として名前を連ねるもう一人、付楠(フナン)さんは恵恵さんの母親。岡崎さんは、恵恵さんが亡くなったあとも「恵恵に代わって彼女の両親の面倒をみたい」と、北京に残り、付楠さんと、付楠さんの夫であり恵恵さんの父親である詹明蘇(ジャンミンスー)さんと3人で暮らしている。
岡崎さんと恵恵さんが出会ったのは、04年12月に兵庫県にある関西学院大学での留学生歓迎クリスマス・パーティー。同年8月には北京で最初の反日暴動が起きたばかりだった。
恵恵さんは大学院の留学生として、同大OBである岡崎さんは、家がしばしば留学生を受け入れるホストファミリーを務めていた関係で、パーティーに出席していたという。それぞれが友人らといて、グループとなって合流。恵恵さんはのちに、岡崎さんに「あの日、私をみつけてくれてありがとう」と述べた、いわば運命のときだった。
翌05年3月、恵恵さんは大学院を修了して卒業式に中国から両親を招き、岡崎さんの両親らとも会い婚約を整える。
乳がんが発覚、手術・治療にたえ…
恵恵さんと岡崎さんの、あるいは、2人の家族の物語は、この直後から急転回する。北京に帰って挙式の準備をすすめていた恵恵さんに乳がんがみつかり、岡崎さんは北京に飛び看病を続ける。手術、結婚式のキャンセル、つらい化学治療…。岡崎さんは、化学治療の副作用で髪が抜け落ちた恵恵さんに合わせて丸坊主にするなど彼女の力になるよう努め続けた。
この年の12月までに化学治療を終え、恵恵さんは元気を取り戻し、岡崎さんともども北京で就職を果たす。そして07年9月、2年前にキャンセルしていた、2人の母校・関西学院大学チャペルでの結婚式を実現させた。
恵恵さんと岡崎さんは、それまでと同じく、北京での生活を続け08年には北京五輪と前後してカレー店を開業するなど、新しい試みに挑戦するなどしていた。しかし翌09年に事態はまた急転。がんの再発が見つかったのだ。
その後、恵恵さんの容体は小康状態、悪化、転移を経て、岡崎さんの献身的看病にもかかわらず11年6月に亡くなった。
娘を失ったが、息子を得た…
恵恵さんと岡崎さんの物語は、中国ではテレビの公共広告として放送され広く知られており、恵恵さんの伯母が、恵恵さんが亡くなった直後に北京の新聞に「愛の聖徒」と題して寄稿している。
また恵恵さんの母、付楠さんは昨年、2人のことをつづった手記「我在天国祝福?」を出版。付楠さんに習い岡崎さんも恵恵さんとの思い出を書きため、さらに、恵恵さんが生前書いていたものを合わせ、3人の手記が共著の形で出版された。出版に合わせ岡崎さんとともに日本にやってきた付楠さんは、
「わたしが手記を書いたのは、2人の人間同士の情と愛に啓発されたから。今回の手記は健太のものが加わり立体的になった」という。
今後については
「私たち夫婦は娘を失ったけど、(岡崎さんという)息子を得た。娘婿ではなくて息子だと思っている。とはいえ、健太にも将来があり、それについて彼なりの選択があるでしょう。彼がこれからどんな選択をしてもそれを支持したい。健太とは親子ですから、再婚して子供できれば、私たちがその子の祖父母であることに変わりはない」と述べた。