末路は「風潮としての民主主義」
終章「革新幻想の帰趨」を、著者は横手の石坂洋次郎記念館訪問から筆を起こす。石坂はいうまでもなく戦後のベストセラー作家であり、「青い山脈」をはじめとする彼の大衆モダニズム小説は、広く若者に支持された。著者は、革新幻想は進歩的文化人が旗振りをしたが、それが戦後社会現象となったのは戦後大衆に受け皿が存在したからであり、その受け皿が大衆モダニズムであり、石坂こそが草の根革新幻想のイデオローグであるとする。石坂作品の読者が感じた魅力は民主主義思想というよりも近代的生活流儀であり、農村青年の「社会党支持の方が…スマートでハイカラ」「保守政党の方はわれわれの生活の古さを連想さす」という発言が示すように、草の根革新幻想はスマートやハイカラという生活感覚が社会党支持というイデオロギーに結びついたものであった。
大衆モダニズムと手を結んだ革新幻想の末路を、著者は、「風潮としての民主主義」すなわちクレーマー社会、お客様社会といわれるものではなかろうかと指摘し、民主主義と教育の大衆化の帰結が大衆エゴイズムだったのかと慨嘆する。そして著者の大衆人への悲観は、「慢心しきったおぼっちゃま」「ニーチェの言う『畜群』(衆愚)へあと一歩の距離」というところまで至る。このような大衆人こそは、革新知識人がみずからの覇権の援軍として、啓蒙し創出しようとした大衆の鬼子なのであった。蓋し卓見である。
著者の説く通り、進歩的文化人の現代的な姿がテレビのコメンテーターやキャスターであり、彼らが相手とするポストモダンの大衆は「想像された」大衆であって、「大衆の幻像」である。「国民の皆さん」「視聴者」「一般の方々」と言ったところで、人々は街頭でマイクを向けられると、自分が考えていることを言うのではなくて、期待された答えを返すのであり、大衆の意見もまた幻想なのである。著者は、今の日本を、幻像としての大衆からの監視による「大衆幻想国家」であると看破し、「日本人らしさ」の霧散の中で「幻想としての大衆」に引きずられ劣化する大衆社会により日本が没落していくのではないかと憂いつつ、この章を閉じている。
この大著の結論部に当たる終章の展開については、駆け足感というか気合いに筆が追いつかない感じがあるようにも思う。さすが冷静な著者も、「大衆幻想国家」に憤りを抑えられなかったのか。わかるような気がする。
山科翠(経済官庁 Ⅰ種)