進歩的教育学者たちの醜悪な学会支配
八つの章それぞれに読み応えがあるのだが、何といっても圧巻はⅢ章「進歩的教育者たち」ではなかろうか。筆者によれば、ごく最近までは(今でもかなりは)教育学者と言えば「進歩的」学者の典型であり、特に東大教育学部は日教組中央講師団の有力メンバーが輩出し、論壇や出版界を闊歩していた。三M教授と呼ばれた三教授が学部の実権を握って人事を壟断し、彼らの理論を批判すると袋叩きを覚悟せざるを得なかったという。著者は、東大教育学部が進歩的教育学者の牙城となったのは、同学部が1949年5月に設立された「ポツダム」学部であって、教員の大量採用の必要から、最初の有力な赴任者の意向によって人事がなされたためだとする。紙幅の関係で詳しく紹介できないが、教育学は著者の専攻分野だけあって、進歩的教育学者たちの人事を通じた醜悪な学会支配や、日教組を通じた教育支配についての分析は迫力がある。
また、Ⅴ章の「福田恆存の論文と戯曲の波紋」も当時の論壇の雰囲気がわかって興味深い。加えて抜粋引用されている福田の論説が、彼の著作に不案内な筆者には極めて新鮮かつ面白かった。例として、日本の平和論を「屠蘇の杯」で説明する福田の指摘を紹介すると、日本の平和論は、基地における教育問題を、日本の植民地化に、さらに安保条約に、そして資本主義対共産主義という根本問題にまでさかのぼらせる論であり、下から順に大きなものから小さなものへ積み重ねられている屠蘇の盃を、上から次々に大きなものを取っていくようなもので、具体的問題を一般的抽象的 問題に置き換えていく論法だと指摘するものである。