昨年大きな話題となった映画「ハンナ・アーレント」は、日本において根強い人気を持つ哲学者を生き生きと描いた秀作だ。この映画においては、ナチス・ドイツのホローコストに関わったアイヒマンが、1961年にイスラエルで行われた裁判(死刑判決が出たもの)において、自分の行った行為を「命令に従っただけ」と述べ、それがあまりにも「小役人」であったことの意味を、アーレントが深く受け止め、それを雑誌ニューヨーカーの記事にし、厳しい批判にさらされたことが中心的なテーマの1つとなっている。
また、5月16日付け産経ニュースによれば、外務省の職員が、政治家からの問い合わせに「私は小役人」と電話対応したことが問題となり、岸田外務大臣が衆議院外交防衛委員会で陳謝したということだ。先方は、外務省職員を外務「官僚」(広辞苑によれば、役人、特に、政策決定に影響を与えるような上級の公務員の一群という)と見たが、本人は、自分の権限や「官僚」に対する強い批判、政治主導を強調する空気の中で、自分を「官僚」とは思わなくなったということもあるのだろうか。
「無制限・無定量」な公務と組織への忠誠心
官僚に対する世間の批判の1つは、極めて深刻な例からこの卑近な例のいずれにおいても、「非人間的」な行動様式ということだ。
しかし、官僚制について社会科学の方法から解明する学問分野である「行政学」の定評ある教科書の1つである西尾勝著「行政学」(有斐閣 初版1993年 新版2001年)の第13章「官僚制批判の系譜」をみれば、「一般に官僚主義と総称されている官僚制組織職員の行動様式に見られる機能障害現象は、官僚制組織の健全正常なる作動にとって必要不可欠な諸原則と裏腹の関係になっているので、これについては、その発現を抑制しその弊害を緩和することはできても、これを根絶することはまずもって不可能に近いといわなければならない」という指摘がある。
このような醒めた認識が世間で定着することが、逆説的ではあるが、今後、行政の改革・改善を不断に行っていく上での、基盤となるのではないのだろうか。
日本の行政について、透徹した見方を示した不朽の名著が「日本の行政」(松村岐夫著 中公新書 1994年)である。村松氏が喝破したように、日本の官僚制は、「活動量を保障するリソースが存在していないにもかかわらず、過剰ともいえる活動」をしている。これを支えるのは、「無制限・無定量」と言われる、公務と組織への忠誠心がもたらすものであり、20年たってもその実態は、言われるほど変わっていないように思われる。