お花見シーズン到来。誰もがうきたつ季節に挑戦するような『桜は本当に美しいのか』(水原紫苑著、平凡社新書)が。そう刷りこまれただけだと説く女性歌人が、人々の欲望や日本の共同幻想論へと触れていく。パッと咲いてパッと散る桜の潔さを称える本は多いけれど、王朝文学からポピュラーソングまでをとり上げて美意識の正体を見きわめようとする視点は鋭い。私たちの桜好きが「つくられた伝統」なのだとしたら、この国の行方を考えて国家主義や個人のあり方ともかかわってくる。【2014年3月30日(日)の各紙からⅠ】
桜に人間の欲望が「担わされて」
桜はもともと山に自生していた。稲作の豊凶を告げる木として、昔の人々が敬い畏れていた。ここを原点に著者の分析が始まる。人と桜の素朴な関係が一変するのは『古今集』からだそうだ。初の勅撰(ちょくせん)和歌集だから、それまで文芸の中心だった漢詩にかわる新味をだそうとピックアップされたのが桜の美なのだという。
王朝文学、能、歌舞伎、近現代の短歌。桜にことよせて人間の欲望が表現されて、著者の言い方では「担わされて」いく。咲けば興奮、散れば何事もなかったように静まる。この間に論理が入るすき間はない。忠臣蔵の名せりふ「花は桜木人は武士」を、桜に寄せられた欲望のうちで最悪に近いと著者は見る。
そう考えると、たしかに桜は忍耐や忠節のシンボルなのかもしれない。そして、事態がいったん展開したら、文句や反論は潔くないというのか。押しつけの正当化。「男らしくない」といった決まり文句も、こんなところから出たのかもしれない。