「上海エイレーネー」(大薗治夫著、ブイツーソリューション刊、1890円)
物語の主人公のモデルは、しばしば"スパイ"として描かれてきた実在の女性、鄭蘋如(テンピンルー、ていひんにょ)。1930年代後半から1940年代前半の日中戦争時の上海を舞台に、工作員として成功・活躍する様子から、その"最期"までが語られる。現在、複雑なかじ取りが求められている中国との関係だが、その原型ともいえる、80年ほど前の"抗日運動"が盛んだったころの日中関係について詳しく知ることもできる。
元財務省官僚、2作目の小説
著者の大薗治夫(おおその・はるお)氏は、1987年に大蔵省(現財務省)に入省し、証券局、主税局などを経て、95年から在上海日本総領事館領事を務めた。98年に帰国して退官するが、同年から中国情報発信のウェブサイト編集長として上海に駐在し、2011年に同社を退社し著作活動を本格化させている。本書は、大薗氏の2作目の小説。
さて「上海エイレーネー」の「エイレーネー」は、ギリシャ神話に登場する平和を司る女神のこと。タイトルの意味は「上海の平和の女神」であり、著者によれば、その内容は「上海を舞台とした平和の物語」という。
「日中戦争を背景にした女スパイのドキュメント小説が、平和の物語って…」と思われがちだが、本書のタイトルこそが、鄭蘋如をめぐる著者の新解釈だ。大薗さんは「お読みいただく前に」という、本書紹介のウェブサイトに寄せた文章で、こう述べている。
「最新の資料や証言をも加えて読み解けば、別の彼女の姿が見えてきます。そこで本作では、彼女を日中両国の狭間で悩み苦しみ、両国間の平和を希求する女性と捉えて、暗殺に加わった理由などについて仮説を加えつつ、より素顔に近い彼女を描くことを試みています」
900枚の大作
仕上がった作品は、原稿用紙換算で約900枚の大作。執筆開始からほぼ1年をかけて完成させたという。
鄭蘋如は、日本に官費留学経験を持つ中国政府高官の父と、その下宿先で働いていた日本人女性との間に生まれた。さまざまな人物の回想録などで「絶世の美人」といわれている。
鄭蘋如をモデルにした本書の主人公の名は趙靄若(ジャオ・アイル)。アイルは、アルファベットでEire。物語の「序」で、Eirene(エイレーネー/アイリーン)、つまり「平和の女神」の仮の姿であることがほのめかされる。
物語の始まりは女子大生時代から。当時からその美貌は評判で雑誌の表紙を飾るほど。だが日中間の紛争は収まる気配はなく、父親が中国人、母親が日本人という環境から心穏やかならざりし日々を送っている。
全6章のうち、1~5章が、主人公の揺れ動く気持ちを背景に工作員としての成長物語や、日中戦争の和平工作の表裏で行われた駆け引きに費やされている。著者の「史実と史実の間を創作で埋める作業」が読み応えを与えると同時に、読みやすく展開する。
そして、第6章で「潜入」と、初めて主人公が工作員の小説らしいタイトルがつけられ、彼女の"最期"がつづられる。