改鋳は巧妙な商業への課税
元禄八年(1695年)幕府は、勘定吟味役の重秀を実質責任者として史上初の貨幣改鋳を行う。慶長小判の金の含有量を三割減らした元禄小判を1%程度のプレミアムで強制通用させたのである。我々は著者に倣って、この改鋳を戦後の金本位制脱却までの長い道のりの第一歩と、評価してよいだろう。従来この改鋳は深刻な物価上昇を招いたとされてきたが、著者によれば、改鋳直後の元禄八、九年の米価高騰は両年の冷夏多雨によるものであり、改鋳後11年間の米価の上昇は平均年3%弱に過ぎない。著者は、幕府が得た巨額の改鋳益は庶民の負担によるものではなく、慶長金銀を大量に保有していた商業資本などの負担であって、巧妙な商業への課税だったと指摘し、商業資本などの貯蓄を投資に移転させる効果があったとする。
勘定奉行に進んだ重秀は、幕府の経済・財政政策を一身に担う。長崎貿易を改革し、銅輸出を拡大して金銀の流出を防ぐとともに、銅決済の貿易から巨額の運上金を幕府収入に組み入れた。このほか財政収入確保のため様々な改革に取り組むが、不幸なことに、この時期、元禄大地震、宝永大地震、富士山の宝永大噴火など大災害が続く。彼は全国の天領大名領に石高に応じた賦課金を課すなど必死の努力を続けるが、財政は逼迫の度を高めていく。