自身参画して成し遂げた天下一統豊臣体制への思い
他方著者は、恵瓊の人生の幅の広さを指摘する。禅宗の最高位である五山の住持の地位に上がり、東福寺二百三十七世住持霊新をはじめ弟子にも恵まれた。また多くの寺院建築に関与して大きな功績を残している。
では何故、先が見え人生の幅が広い恵瓊が、関ヶ原で敗軍に与したのであろうか。恵瓊は、石田三成と結んで毛利輝元を西軍の盟主に担ぎ出すが、勝ち目なしとする毛利の重鎮吉川広家を説得できず、広家は家康に内通する。恵瓊は往年の機略を失い、為すところなく破滅したように見える。積極性を欠いた恵瓊の行動について著者は、既に齢六十三歳に達していた恵瓊は、不利はわかりすぎていたが、秀吉の恩顧への感情が先だって現実的に割り切る行動ができなかったとする。
筆者の見解もこれに近い。三成と袂を分かち世俗を完全に捨てる途もあったのにそうしなかったのは、恵瓊自身参画して成し遂げた天下一統豊臣体制への思い故であろう。広家の内通に対策を講じなかったのは、西軍必敗を見通して毛利氏のために東軍にも保険をかけようという思いもあったのかもしれない。いずれにせよ、凡そ先見の明とは、合理的な行動を貫徹する意志の力を伴わなければ意味がないものらしい。
経済官庁(Ⅰ種職員)山科翠
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