「吾輩は猫である。名前はまだ無い」。この人口に膾炙した書き出しで始まる小説を初めて手にしたのは、いつ頃だっただろうか?多分中学の終わりか高校のはじめだった気がする。そのときは、起伏の乏しい展開と聞き慣れない熟語に嫌気がさし、早々に挫折したのを覚えている。それから、相当の年月が経ち今回久しぶりに再度手を伸ばしてみたら、これが、面白い。
急速な近代化へ冷静に寸鉄打ち込む
何が面白いかというと、社会や経済の現状とは全く関係ないと見える言葉遊び、思想遊びに終始していながら、鋭い文明批評がちりばめられている。例えば、第11章において、主人とその友人である迷亭、寒月、独仙、東風が雑談を始め、「探偵」について論じる件などはどうであろう。
「探偵と言えば20世紀の人間は大抵探偵のようになる傾向があるが、どういうわけだろう」という問いに、「物価が高いせいでしょう」、「芸術趣味を解しないからでしょう」、「人間に文明の角が生えて、金平糖のようにいらいらするからさ」と立て続けに答えさせ、最後に主人が「僕の解釈によると、当世人の探偵的傾向は全く個人の自覚心の強過ぎるのが原因になっている」と受けている。これなどは、小説内の人物造形にあわせ、探偵的傾向を軽妙に受け流しつつ、次第に文明批評、近代個人主義に対する批評になってはいないだろうか。
翻って現在では、新聞のニュースに目を通すと、例えば、米国の量的緩和の縮小の思惑から急速に進んだ円安・株高の調整局面が長引く可能性に触れる記事がある。新聞記事と小説とを一概に比較もできまいが、漱石の軽妙洒脱といかに乖離しているか。「吾輩は猫である」は、その中の文章にもわかるように日露戦争のまっただ中に執筆され、この戦争の行方には当時の国民の関心も高かった。このような状況の中、「吾輩は猫である」の登場人物は、言葉遊びを繰り返し、高踏な思想の断片を繰り広げつつ、明治日本の文明開化、急速な近代化に冷静に寸鉄を打ち込んでいる。「吾輩は猫である」が面白いのは、漱石のこうした軽妙洒脱でありながら鋭い一言が、漱石の独自の文明論に裏打ちされた現実批評となっていることにあるのではないか。