『徒然草』といえば、中学高校の古典の教材の定番である。おそらく諸兄姉も古典の授業で、弓の先生が「初心の人二つの矢を持つことなかれ」と言った(第92段)とか、有名な木登りの名人が人を指図して高い木に登らせた際に、危なそうな時には何も言わず、軒の高さまで下りた時にはじめて気をつけろと注意した(第109段)といった話を、教わったことと思う。生意気な年頃の耳にはいささか説教臭く聞こえたものだ。ところが、先日ふとしたことから、本棚で埃をかぶっていた徒然草の文庫本(岩波)をぱらぱらめくってみたら、これが実に面白いのである。
中高生の時は限られたいくつかの段しか読まなかったし、それも文法を習いながらの授業であったこともあるが、何より大きいのは、こちらが社会人経験を積み、多少は世間というものを知るようになったということだろう。
プロたちの言動から処世に通ずる教訓を抽出
今、徒然草を読んで特徴的だと思うのは、まず、兼好のプロフェッショナルへの敬意である。それは随所にみられるが、例えば第51段では、仙洞御所に水車を作ったがうまく回らなかったところ、水車が多いので知られていた宇治の里人を召して修理させたらうまく回るようになったという話を挙げ、「万に、その道を知れる者は、やんごとなきものなり」と賞している。
兼好はこうしたプロたちの言動から処世に通ずる教訓を抽出しようとする。弓の先生の話にしても、高名の木登りの話にしても、表現がストレートなので説教臭くもあるが、サラリーマンのための世俗的処世訓として読めば鋭く深いものである。特に、第110段で双六の上手が語る必勝法「勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり」というのは、実に味わい深く、兼好の指摘するように「身を治め、国を保たん道も、またしかなり」ということであろう。彼の世俗的処世訓は、プロの言動由来のものに限らず、およそ秀逸である。第233段では「万の咎は、馴れたるさまに上手めき、所得(ところえ)たる気色して、人をないがしろにするにあり」としている。このあたり、霞が関でもうなづく人は多いのではなかろうか。
「上戸は、をかしく、罪許さるゝ者なり」とおおらかさも
もう一つの特徴は、知ったかぶりをする者や分を弁えない者などへの軽蔑である。こうした者たちへは、「いとも知らぬ道の物語したる、かたはらいたく、聞きにくし」(第57段)と極めて厳しい。第193段では、暗愚な人が他人の知能の程度を推測することは的外れだとして、「己が境界にあらざるものをば、争ふべからず、是非すべからず」としている。
他方、兼好には偽悪的なところもあって、これまた面白い。例えば第117段では、「よき友、三つあり」として、「一つには、ものくるゝ友。二つには、医師。三つには、知恵ある友」を挙げている。物をくれる友を真っ先に挙げているところが、いいではないか。
また、無常を説き遁世を勧める一方で、女性も酒も嫌いではなさそうなところがいい。第175段で、彼は酒について、何かある度に無理に酒を飲ませて喜ぶのは理解できない云々と散々こき下ろしつつも、「かくうとましと思ふものなれど、おのづから捨て難き折もあるべし」とし、月見酒がいい、雪見酒も花見酒もいい、旅先で外で飲むのもいい、無礼講がいいと並べた上で、「上戸は、をかしく、罪許さるゝ者なり」と、我々酒飲みが大いに力づけられることを述べている。筆者が一番好きな段でもある。
経済官庁(Ⅰ種職員)山科翠
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