【書評ウォッチ】優等生には出せない「ヘタウマ」の魅力 岡本太郎、立川談志、ピカソまで

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   何事も上手と下手だけではないぞ。別にオモシロいという第三の尺度・基準・感覚があるじゃないか。ユーモラスでシャープ、意外性もたっぷりの似顔絵で広く知られる山藤章二さんが『ヘタウマ文化論』(岩波新書)を著した。

   江戸庶民文化から岡本太郎、立川談志さらにはピカソまで、芸術家・創造者のエピソードを交えて展開するサブカルチャー談義。「近頃、日本人がヘタになっている」と嘆きながらも、単純にウマいだけではない芸と文化のオモシロさを読み解いた。【2013年5月5日(日)の各紙からI】

優等生から飛び離れた個性と独創

『ヘタウマ文化論』(岩波新書)
『ヘタウマ文化論』(岩波新書)

   「ヘタ、ウマい、オモシロいの3つの極を交錯させながら、著者はヘタウマ文化論を縦横無尽に繰り広げていく」と、毎日新聞で評者・井波律子さん。「ただウマいだけでは評価されない複雑な時勢を、つれづれなるままに論じる」と読売新聞も文庫新書欄で。人は上手になることをめざしてきたはずだが、それを超えた尺度を持ち出した発想が反響を呼んでいる。

   ヘタでもなく、ウマいかと問われるとどうも疑問だが、それでも妙に心に残る。こういうヘタウマの芸や芸術がいつから定着したのか。実は、江戸庶民文化から日本には息づいてきたと山藤さんは考える。してみると、なにも市民とは無縁な、難しい芸術論ではない。

   で、大いなるヘタウマ文化の実践者を山藤さんはあげていく。江戸期なら蜀山人、写楽、歌麿、十返舎一九など。優等生的なウマさからは限りなく飛び離れた個性と創造の世界だ。

   それはピカソにも通じるという例がわかりやすい。正確なデッサン力をもつピカソは、写実にとどまることなく対象を変形し、想定外の造形を創り出していった。

芸術・芸能の中核「ヘタウマ文化」

   反対の角度からわかりやすいのは「談志ができなかった芸」の例だ。名人・談志はウマすぎた。おかげで、ヘタなのになぜかおかしいという状態になかなか達しなかった。

   芸は大したことないのに、高座に上がっただけで客を笑わせるタイプがいる。談志にはこれがなく、だから「格闘をし続けなければならなかった」というのだ。

   飛躍を期す芸術家が定型を壊して脱皮する。「こうした創造的破壊が、サブカルチャーの分野において、ちょっと斜に構えた遊びのポーズで脈々と行われてきたことを、本書は的確に示唆している」と評者の井波さんは薦める。日本の芸術・芸能の中核にあるヘタウマ文化。ただし、テレビ番組で「タレントが無内容、無芸のしゃべりをまきちらし……などは、むろんこの限りではない」とピシャリ抑えてもいる。混同してはいけない。

(ジャーナリスト 高橋俊一)

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